2010-06-13

くるくる回る

池上先生ご夫妻と赤羽さんがひさしぶりに神戸におみえになったので、三宅先生ご夫妻にお招きいただき、御影のジュエンヌというフレンチレストランで会食。
池上先生・三宅先生とごいっしょのときはつねに「カルマ落とし」を兼ねているので、私たちの仕事はとにかく必死になってお酒をのみ、ご飯を食べ、諸先生がたの財布の重さを軽減することに尽くされる。
むろん、私らごときがどれほど努力しても、先生がたの巨大なカルマは「五劫のすりきれ」ほどの影響も受けぬのであるが、それでも気は心である。
先生がたのご健勝と弥栄を祈って、シャンペンを飲み、ランプステーキを食す。
ぱくぱく。
池上先生のためにiPadを持参する。
先生はガジェットに弱い。
とくに「くるくるまわる」系ガジェットに弱い。
私の家には「銀河の風」というくるくる系ガジェットがあるが、これはもともと先生の新宿のアシュラムノバに置いてあったのを私が見咎めて、「せんせ、あれは何ですか?」とうかがったところ、「そばに置いておくと、楽器の音がよくなり、鋏の切れ味がよくなり、眼鏡もよく見えるようになるマホーの秘密兵器なのだ」と教えていただいた。
私はさっそくその製造会社の電話番号を教えていただき、現物をゲットした。
それを嬉嬉として家に置いて、くるくる回して楽しんでいたのだが、ゼミ生たちがやってきて、「これは何ですか?」と訊くので、「銀河の風なのだ」と教えた。
いくらだと思うね、と訊ねてみたところ、「6000円」というやつがいた。「それは安すぎるわよ、1万円くらいですよね?」ととりなす学生もいた。
あのね・・・
まあ、よい。
私は楽器や鋏ではなく、おもに「麻雀に際して勝ち運が到来するように」という限定的な目的のために「銀河の風」を設置したのであるが、どうも思うように勝てない。
考えてみたら、「風」はその場にいる全員に当たるのであった・・・
そんな「くるくる」系大好きな池上先生から先般三宅先生経由で、「Mova Globe」なるものが贈られてきた。
こんどは「ぐるぐる回る地球儀」である。
太陽光エネルギーなので、ほうっておいてもいつまでもぐるぐる回る。
いまもパソコンのディスプレイの横で律儀にぐるぐる回っている。
こういうものを見ていると、胸の奥がほっこりと暖かくなる。
おまえもがんばっているんだね。父さんもがんばるよ。

2010-06-12

キャラ化する世界

教授会のさいちゅうに携帯が鳴って、廊下で出たら、某新聞から電話取材。
本日、菅新首相の所信表明演説があったけれど、新内閣につい ての感想は・・・というご下問である。
こちらは授業と会議で、演説聴いてないので、なんとも言いようがないけれど、とにかく直前の内閣支持 率20%が3倍にはねあがるというのは「異常」だと申し上げる。
菅首相自身は前内閣の副総理。主要閣僚もほとんど留任であり、政策の整合性 を考えるなら、前政権から大きく変化するということはありえないし、あるべきでもない。
もし、首相がかわったせいで政権の性格が一変すると いうのなら、それは副総理であったときの菅直人の政治的影響力が「かぎりなくゼロに近い」ものだったということを意味する。
副総理のときに 政策決定にまったく関与できなかった政治家が、1ランク上がったせいで、圧倒的な指導力を発揮するという説明を私は信じない。
菅新首相は前 内閣の枢要の地位にあった。
だから、前政権が繰り返し致命的な「失政」を犯したというメディアの報道が真実なら、「A級戦犯」として指弾さ れなければならない人物である。
そうではない、すべては鳩山由紀夫という人物の属人的無能ゆえの失政であり、閣僚には何の責任もないという のが、新政権およびメディアのとりあえずの「総括」のように思われるのだが、私はこのような「属人的特質によって、複雑な問題を単純化する傾向」のことを 「キャラ化」と呼ぶことにした。
「キャラが立つ」ということを言い出したのは小池一夫である。
劇画の世界では小池以来ひさ しく「キャラ」の立ち上げが最優先事項とされてきた。
キャラが立てば、ストーリーはあとからついてくる。
どういう「カラフ ル」なキャラを創造するか、そこにマンガ家の力量が現れる。
これはウラジミール・プロップ的物語構造の定型性から脱却するための、画期的な アイディアだったと私は思う。
きわだった「キャラ」は物語の定型的な流れを打ち破り、因習的な登場人物たちであれば、決して「言うはずのな いこと」を語り、決して「するはずがないこと」を断行してしまう。
小池一夫が「キャラ」という言葉を言い出したときにめざしていたのは、そ のような人物設定上の「法外さ」によって、マンガの世界に自由をもたらしきたすことだった。
と私は思う。
けれども、あらゆる 創意は定型化する。
「キャラ」もまたたちまちのうちに定型に回収された。
キャラの派手さによって、ストーリーの定型性は隠 蔽される。
キャラにさえ「新奇性」があれば、物語はどれほど古くさくても、黴臭くても、「新製品」として通用する。
そのよう にして、「凡庸な物語の上を、わざとらしく新奇なキャラが走り回る」 という現在のマンガ状況の「ダークサイド」が形成されることになったのである。
こ の「キャラの斬新性によって、物語の定型性を隠蔽する」傾向は、そののちマンガを源流に、あらゆるジャンルに浸潤していった。
小説にも、音 楽にも、演劇にも、そしてもちろん政治にも。
小泉純一郎以来の歴代の短命政権があらわにしたのは、私たちの政治構造はソリッドな「定型」に 取り込まれており、 そこから脱出するためにはラディカルな変革以外に手立てがないのだが、それだけの力を政治家たちは持っていないので、しかたなしに「キャラ」を付け替える ことで、「あたかも変革が試みられている」かのような様相を仮象することで、有権者たちのうつろな希望を満たそうとしてきた、ということである。
鳩 山政権を罵倒した同じ有権者が菅政権に「期待する」ということは、論理的にはありえない。
そのありえないことが起きるのは、有権者自身が政 治過程を「キャラ」の交代劇としてしか見ていないということを意味している。
根本構造は変わらない。
「キャラ」だけが変わ る。
私はそのような表層的な変化に期待すべきではないと思う。
それは私が菅政権を支持していないということではない。
私 はこの政権にはせめて2年くらいは続いて欲しいと思っている。
そして、有権者たちがこの「キャラ」たちにも飽き始め、「次のキャラ」への付 け替えを望みだしても、そのようなうつろな「ニーズ」に応じることなく、私たちの国の政治的定型を形成している「構造」そのものに肉迫する作業に愚直に専 念してもらいたいと思う。

2010-06-10

めぐみ会の講演、ほか

北方領土問題は旧ブログのほうにアップしておきました。読んでくださいね。
http://blog.tatsuru.com/

めぐみ会の講演で、「右肩下がりの日本をどう生きるか」というお題で1時間半ほどおしゃべり。
会場は同窓生のみならず、そのご家族、おともだち、近隣の市民で満席。
お断りしなければならなかった方も多かったそうで、この場をかりて、お礼とお詫びを申し上げます。
日本の未来についてはほとんどしゃべらず、北方領土と沖縄基地問題と日米問題、マスメディアの問題などについて暴論奇説を展開。
本学の同窓生のおばさまたちはこの種の批評性にたいしては総じて寛大なので、私の話を聴いて「まあ」と柳眉を逆立てる方もおらず、無事に講演終了。
質疑応答とサイン会が長引き、50分遅刻して、次の光文社とのセッションに駆け込む。

『街場のメディア論』(仮題)の仮打ち上げである。
まだ書き終わっていないのだが、あと20枚くらい書けば、だいたい250枚。新書一冊分になる。
8月中旬に刊行予定。
来週ワルモノ先生との往復書簡本『若者よマルクスを読もう』(昨日のツイッターで書いたタイトルは間違ってましたね「読め」じゃなくて「読もう」でした。自分の本のタイトル-それも自分でつけた-を間違えてはいけません)が出ます。
そのあと釈先生・名越先生との共著『現代人の祈り-呪いと祝い』(これは武田鉄矢さんに帯を書いていただきました。武田さん、ありがとうございます)。
そのあと8月がこの『街場のメディア論』、10月には小学館から『街場のマンガ論』。筑摩書房から『武道的思考』(仮題)が出て、中沢新一さんとの対談本が出て・・・と、だんだん月刊ウチダ状態になってきました。
どうぞよろしくお付き合いください。

光文社新書のこれまでの担当だった古谷さんは取締役電子出版部部長になってしまった(聴くだにご苦労の多そうなポストである)し、永吉さんはHERSという50代のリッチなおばさま雑誌に異動してしまい、こんどの担当は森岡さんという方。
とりあえず顔合わせということで並木屋に行って、美味しい物を食べながら、50代のリッチなおばさまたちのファッションと美容術について驚くべき現場からのレポートをうかがい、森岡さんと映画の話をしているうちに、どういう女優が好みかという話になり、キム・ノヴァク、シャーリー・マクレーン、ローレン・バコール、キャサリン・ロス、デボラ・アンガー、アン・ハサウェイと続く私の「ひらめ顔」への固執をカミングアウトする羽目になる。
眼と眼のあいだに微妙な空間があると、そこに吸い込まれそうな気になるのだ。
そういえばうちの奥さんもちょっと・・・

わいわい騒いで、美味しいものを食べ尽くして、三人とお別れして、今度は白鷹禄水苑で開かれている辰馬朱満子さん主宰の「西宮在住古典芸能継承者の会」(みたいな名前の会) にお招きいただいていたので、そちらに顔を出す。
小鼓の久田先生と、講談の旭堂南陵さんと毎日新聞の油井さんという方がいらしていて、とりあえず白鷹の原酒の美味しいのがじゃんじゃん出てくるので、ご挨拶もそこそこにお酒を飲む。
そこにご近所のシテ方の上田拓司さん、寺澤幸祐さん、狂言師の善竹隆司さんも加わって、芸能とはあまり関係のない「怪奇現象」やUFOの話になる。
南陵さんは「そういう話は信じない」と言われるので、私は「香港猫の祟り」と「尾山台上空UFO遭遇事件」の当事者として、「人知を越えるできごとって、あるんですよ」と強く反論。自宅の能舞台に「何かが出る」と証言された上田拓司さんともども「世にも怪奇な物語」を繰り出しているうちに気がつけば日付が変わっていた。

2010-06-07

こんにちは。

みなさん、こんにちは。
なんか、他人行儀ですが(まあ、他人なんですけど)。
サーバがあまりにダウンするので、とりあえず、ここに避難することにしました。
使い勝手がまだよくわからないので、なんだか、他人の家の離れに間借りしているような気分です。
いろいろご迷惑をおかけしましたが、これからもどうぞよろしくお願いします。
それからIT秘書のみなさん、どうもいろいろご高配ありがとうございました。
トーザワくんのおかげでiPadをいちはやくげとしましたので、これからはiPadで投稿できるようにがんばります。
たぶんうちの大学の教職員ではぼくがiPad第一号だと思います(へへ)。

グーグル携帯のときも芦屋のdocomoで「お客さんが最初です」(7月10日発売の機種を12日購入したんです~)と言われましたけど、今回も5月28日発売日に買いましたからね。

電子ガジェットにほんとに目がないんです。メカには弱いのにね。

とりあえず、こんな感じで。

でも、なんか入力方式が違うと、ツイッターみたいな文体になっちゃいますね。変なの。

2010-06-05

もうひとことだけ

朝刊を読んだら、菅直人新首相について「期待する」という社説が掲げてあった。
その理由として市民運動出身であり、ポリティカル・ファミリーの出身でなく、自民党員だったことがないことが挙げてあった。
そして、新首相に課せられた最優先の政治課題は「小沢一郎の影響力を払拭すること」だと書かれていた。
私はこの説明を読んで、考え込んでしまった。
こういうことを「統治者としてのアドバンテージ」としてよろしいのであろうか。
「市民運動をしたことがなくて、ポリティカル・ファミリーの出身で、自民党員だったことがある」前首相との対比で、そのアドバンテージを強調したかった論説委員の気持ちは理解できるが、私はこの記事を読んで深い徒労感を覚えた。
もう何度も書いていることだが、私たちの国が陥っている窮状は構造的なものであり、つよい惰性をもっている。
日本の不調を統治者個人の属人的な能力で説明することには限界があるし、その人がどのような政治的キャリアであるかということと彼がこれから行う政治的選択の適否のあいだにも十分な相関関係はない。
メディアや政治学者の仕事はなによりもまず、統治者に意志があれば実現可能であるのは「どこまで」で、どこから後は個人的な善意や願望だけでは簡単には実現しない構造的な問題であるか、その境界をあきらかにすることではないのか。
統治者を評価するときには、まず「意志があれば実現可能」である政治課題の成否について吟味し、「善意や願望だけではどうにもならない」構造的な問題についての評価は「別のスケール」で考量すべきだろう。
けれども今のメディア知識人たちにはあきらかにそのようなスケールの使い分けをする能力が欠如している。
彼らの今回のできごとについての総括は失政の責任は「鳩山由紀夫」という個人の無能に帰し、新政権のまずなすべきことを「小沢一郎」という個人の排除だとしている。
だが、前政権が露呈させたのは、「日本は主権国家ではない」という「根源的事実」と、官僚とメディアがその事実を組織的に隠蔽してきたという「派生的事実」である。
このどちらのイシューについてもメディアはまったく論じる気がないようである。
アメリカの一友人に書いたことをもう一度採録する。私はこう書いた。

「ご存知のように、普天間基地問題について、日本のメディアはアメリカの東アジア軍略についても、日本領土に基地があることの必然性についても、ほとんど言及していません。彼らは鳩山首相の『弱さ』だけにフォーカスしています。彼らは首相を別の人間に置き換えさえすれば、私たちはまたこの問題をハンドルできるようになる、そう言いたいのです。
普天間問題はなによりも国内問題である、と。
日本人がアメリカ人と向きあうときに感じる『弱さ』はこの『想像的な』主権によって代償されています。私たちはアメリカとのあいだにはどのような外交的不一致もない。すべての混乱は日本国内的な対立関係が引き起こしているのだ。そのようにして、私たちは私たちに敗戦の苦い味を私たちに思い出させるアメリカ人をそのつど私たちの脳から厄介払いしているのです。」

今朝の紙面の政治記事のほとんどは政局にかかわるものであった。
それはメディアの「日本がかかえるすべての問題は国内問題である」という信憑(というよりは欲望)をはしなくも露呈していたと私は思う。

論争について

ある月刊誌から上野千鶴子と対談して、「おひとりさま」問題について議論してくださいというご依頼があった。
上野さんと対談してくれという依頼はこれまでも何度もあった。
どれもお断りした。
繰り返し書いているように、私は論争というものを好まないからである。
論争というのはそこに加わる人に論敵を「最低の鞍部」で超えることを戦術上要求する。
それは「脊髄反射的」な攻撃性を備えた人間にとってはそれほどむずかしいことではない。
あらゆる論件についてほれぼれするほどスマートに論敵を「超えて」しまう種類の知的能力というものを備えている人は現にいる(村上春樹は『ねじまき鳥クロニクル』でそのような人物の容貌を活写したことがある)。
それは速く走れるとか高く飛び上がれるとかいうのと同じように、例外的な才能である。
でも、そのような才能を評価する習慣を私はずいぶん前に捨てた。
そのような能力はその素質に恵まれた人自身も、周囲の人もそれほど幸福にしないことがわかったからである。
それだけの資質があれば、それをもっと違うことに使う方が「世の中のため」だろうと思う。
論争におけるマナーについて高橋源一郎さんがツイッターに書いていた。私は高橋さんの提言に100%賛成である。ここに採録しておきたいと思う。

いまからツイートするのは、ぼくが「政治的アクション・政治的言論」に関して原則とすべき、と考えていることです。それは政治的事件や政策への批判、なんらかの提案、具体的な行動、等々、政治に関する関わりのすべてを含む政治的アクションを起こすにあたって、 守るべきことと考えているものです。
原則1・「批判」は「対案」を抱いて臨むべし……政治的問題を批判する時、単なる批判ではなく、なんらかの 「対案」を抱いてからあたるべきです。「××の〇〇という政策は愚か」ではなく「××の〇〇という政策で、△△は評価に値するが、□□は▲▲へ代替すべき」という語法で語るべきです。
原則2・「対案」は「原理的」「現実的」「応急」「思いつき」のいずれでも良し……政治的問題に「正解」はありません。ただ「最適解」が存在するだけです。必要なのは、「最適解」に至る材料を提出することです。「言わない」ことがいちばんまずいのです。なぜ、 批判だけするのか。
原則2続・ぼくたちが「批判」だけして、「対案」を出さないのは、自分もまた「正解」を知らない、と思って いるからです。「どこかに正解がある」と学校教育は教えます。けれど、政治的イッシューに「正解」などないのです。だからこそ、なんでも「言ってみる」べきなのです。
原則3・「自分の意見」は変わるべし…「対案」として「自分の意見」を提出しても、固執する必要はありません。というか、よりましな意見を目にしたら、「即座に変える」べきだとぼくは考えます。なぜなら、「対案」もまた「叩き台」にすぎないからです。一人より 複数の智恵を参考にすべきです。
原則4・「対立する相手」の意見にこそ耳をかたむけるべし…もっとも本質的な批判は、対立者からのものです。だから、その意見にこそ耳をかたむけなければなりません。同調者や支持者の意見は、耳に優しいものですが、自分の「対案」を、「よりまし」にする力にはならないからです。
原則5・「寛容」をもって臨むべし……「対立」する意見を持つ「対立者」を「敵」と考えてはなりません。 「対立者」もまた、同じこの共同体を構成する、かけがえのない成員なのですから。だから、「非国民」「売国奴」「愚か者」のような言葉を決して使ってはなりません。
ぼくがこのような原則を採用している理由は、60年代から70年にかけて、政治運動に参加していた時、この原則を採用できず、悲惨な結果を招いたことがあったからです。以後、ぼくは、これらを守るべき原則と考えるようになったのです。


私は高橋さんのこの原則を支持する。
その原則を適用するからこそ「論争」を望まないのである。
上野さんと私の対立点は「共同体」構想をめぐってのものである。
どのような共同体が望ましいかについての私たちの考えはずいぶん違う。
私は親族共同体をベースに考え、上野さんは親族を離れた個人をベースに考えている。
分岐する理由は私にはよくわかる。
個人ベースの共同体論は「豊かで安全な社会」に適している。親族ベースの共同体論は「豊かでも安全でもない社会」に適している。
理論そのものに当否があるのではない。
私と上野さんでは、社会状況の変化についての見通しがいささか違うだけである。
私は今の日本は「それほど豊かでも安全でもない社会」に(ゆっくりとではあるが)移行しつつあると考えている。
でも、これは「未来予測」であるから、私が正しい予測を立てているかどうかは今の段階ではわからない。時間が経たないとわからない。でも、時間が経てば誰にでもわかる。
時間が経たないとわからないことについて、今ここでその予測の適否を論じてもしかたがない。
適否を論じる暇があったら、とりあえず「あまり豊かでも安全でもない社会」でも生き延びられるように自分なりの備えをしておく方が時間の使い方としては合理的だろうと私は思う。
私自身はそのための「備え」をだいぶ前から始めている。
血縁地縁ベースの相互扶助共同体の構築である。
私はそれを自分の時間とお金をつかって行っている。
「行政が主導すべきだ」とも思わないし、そのような企てに公的な支援をしろと要求する気もないし、範例的な共同体としてメディアに報道してくれと言う気もない。
やりたいからやっているだけである。
他の人にも「私のようにしなさい」と言う筋のものではない。
私と同じような見通しに立って、相互扶助相互支援のための共同体の構築を始めている人はすでに日本中にたくさんいるだろうと思う。
その人たちといずれどこかで出会えばゆるやかな結びつきをもつことがあるかもしれない。ないかもしれない。
私は「自分の旗」を掲げて、「私の考えに同意してくださる方」へ連帯の挨拶を送るだけである。
そのために毎日大量の文章を書いている。
こういう進め方しか私には思いつかない。
その理由は高橋さんと同じである。

2010-06-04

疾走する文体について

英文学者の難波江和英さんと同僚として過ごすのもあと一年。
最近はふたりとも学務が忙しいし、難波江さんは長くご両親の介護をされているので、むかしのようにゆっくり遊んでいる暇がない。
そこで、「先生ふたりゼミ」をやることにした。
メディア・コミュニケーション副専攻の第四学期の演習科目がそれである。
これだと週に一度必ず90分間おしゃべりできる。
それも主題限定。言語の問題、それだけである。
きわだった言語感覚をもつこの文学研究者から同僚として影響を受けるこれが最後の機会である。
毎週いろいろなテーマで学生を巻き込んで熱く語り合っている。
何かを学生に教えるというより、私たちが対話をつうじて「発見」していることを学生たちにもリアルタイムで共同経験してもらうというような授業である。
昨日のテーマは「文体は疾走する」。
ドライブする文体と、そうでない文体がある。
すぐれた作家は一行目から「ぐい」と読者の襟首をつかんで、一気に物語内的世界に拉致し去る「力業」を使う。
マトグロッソでNSPJをやっているので、一般のひとたちの書いたショートストーリーを150編ほど読んだ。
素材的には面白いものがたくさんあった。
文章も上手である。
けれども、「一気に読ませる」ものはまれである。
数行読めば、わかる。
書き手の立ち位置が「遠い」のである。
眼に見えるし、声も聞こえるのだが、体温がしない。
息づかいが伝わってこない。
「一気に読ませるもの」では、一行目でいきなり書き手がもう耳元にいる。
え、いつのまに・・・というくらいみごとに「間合いを切って」いる。
つまり、「一行目から話が始まる」のではなく、「もう話は始まっているのだが、それはたまたま私にとっては『一行目』だった」ということである。
「ぐい」と物語世界の中に拉致し去るような力というのは、要するに書き手の構築しているストーリーの世界の「堅牢さ」なのだと思う。
堅牢で、精緻に作り上げられ、そこにずいぶん長く人が住んでいる構築物に固有の堅牢さである。
そういう建物にはいくらでも入り口がある。
正門から入ってもいいし、裏口から入ってもいいし、窓から入ってもいい。
現にそこで暮らしているんだから。
読み手がどこにいようと、世界が堅牢であれば、私たちはたちまち物語の中に入り込むことができる。
「ここから以外には入れません。順路通りに進んでください」というような指示がされると、微妙に「つくりもの」くさく感じる。ベニヤ板にペンキを塗ったものを並べたものを見せられているのではないかというような気がしてくる。
疾走感のある文体とはどういうものか。
それについて六冊の本の冒頭部分を読んだ。
最初は高橋源一郎『「悪」と戦う』(2010)。
これは週刊現代に書評を書いたばかりである。既発のものだからブログで再録してもいいだろう。

 290頁の本ですけど、読み出して十数秒後には物語の中に引きずり込まれて、「あれよあれよ」という間に100頁まで一気読みしてしまいました。さすがにそこまで読んだところで本から顔を上げて、ようやく「ふう」と息をつきました。なんというドライブ感。高橋源一郎にしか書けないタイプの疾走感のある文章です。知り合いの編集者が「太宰治みたい」と読後の印象を語っていたけれど、たしかにその通り。どういう条件が整うと、作家はこれほどまでに「疾走感のある文章」を書けるのか。息継ぎのついでに、先を読むのを止めてそれについて考えました。小説はこんなふうに始まります。
「キイちゃんは一歳半になりました。でも、ことばが遅い。ことばの発達が遅れている。ああ、この言い方でいいんでしょうか。『ことばが遅い』とか『ことばの発達が遅れている』とか。でも、いいや。間違っていても。それより、キイちゃんのことばの発達のことが心配です。」
 高橋さんの文体のギヤは「ああ」で二速に入り、「でも」で三速に入り、「それより」で「トップギヤ」に入ります。三行でトップスピード。すごい。太宰の「死なうと思ってゐた」とか「子供より親が大事と思いたい」の「一行目からトップギヤ」というワールドレコードにはちょっと届きませんけど、現代作家たちの「ゼロヨン競争」があったら、間違いなく高橋源一郎がぶっちぎりのチャンピオンでしょう。
ゼロヨン超高速で言葉が紡がれるためには先行的な「プラン」は不要です。「プラン」があれば、まっすぐ目的地に向かえるから、文体は速度を獲得するだろうと考えるのは間違い。この文体の速度は、崖から滑り落ちてゆく人間が手に触れる限りのでっぱりやくぼみや木の根や蔦に指を絡めようとする運動の速さに近いです。どこに落ちてゆくのかわからないまま、必死で崖面を探っている「落下者」の指先は「つかめるもの」と「つかめないもの」を触れた瞬間に判断します。その敏感な指先が選び出した「ホールド」となりうる言葉だけが小説を構成したとしたら、そこには無駄な言葉が一つもない小説が出現することになる。理論的にはそうですね。たぶん高橋さんは「そういう小説」を書こうとしたのだと思います。
そのためには、作家その人を今まさに呑み込もうとしている「メエルシュトレエム」に飛び込んでみせなければならない。高橋さんが選んだ大渦は「悪」でした。そして、そこに巻き込まれるのは高橋さんの物語的分身ではなく、「子ども」です。経験知の不足している「子ども」の見る「地獄」の風景はたぶん大人が経巡るときよりもずっと生々しいものになります。その物語の結構から言うと、本作は『ハックルベリー・フィンの冒険』とや『ライ麦畑のキャッチャー』の直系につらなるものかも知れません。
「愛」は「悪」を制御することができるか(「勝てるか」とは言いません)。それは高橋源一郎の全作品に伏流する神話的な主題ですが、それがここまで真率に提示されたものを読むのはひさしぶりのことです。

ほかに例としてあげたのは、村上龍『69 sixty nine』、織田作之助『夫婦善哉』、中島敦『名人伝』、夏目漱石『草枕』。そして決定版がこれ。
「撰ばれてあることの
恍惚と不安
二つわれにあり
ヴェルレエヌ
死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉である。着物の布地は麻であつた。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。

ノラもまた考えた。廊下へ出てうしろの扉をばたんとしめたときに考えた。帰ろうかしら。」
これは小説の「イントロ」としては近代文学史の達成のひとつであろう。(個人的趣味を言わせてもらえば、やはりこれは旧仮名遣いで「死なうと思つてゐた」としたいところだけれど)
授業は『「悪」と戦う』のイントロと『晩年』のイントロが構造的にきわめて近いという論件から始まった。
どこが似ているのか。
それについては各自、もう一度二作を読み比べて(ただし高橋さんの本の方はもう二頁ほど先まで)、お考えいただきたいと思う。
私の考えでは共通点は二つ。
一つは「他人の言葉」がいきなり闖入してくること。
一つは「墜落する」、である。

2010-06-03

首相辞任について

鳩山首相が辞任した。
テレビニュースで辞意表明会見があったらしいが、他出していて見逃したので、正午少し前に朝日新聞からの電話取材でニュースを知らされた。
コメントを求められたので、次のようなことを答えた。
民主党政権は8ヶ月のあいだに、自民党政権下では前景化しなかった日本の「エスタブリッシュメント」を露呈させた。
結果的にはそれに潰されたわけだが、そのような強固な「変化を嫌う抵抗勢力」が存在していることを明らかにしたことが鳩山政権の最大の功績だろう。
エスタブリッシュメントとは「米軍・霞ヶ関・マスメディア」である。
米軍は東アジアの現状維持を望み、霞ヶ関は国内諸制度の現状維持を望み、マスメディアは世論の形成プロセスの現状維持を望んでいる。
誰も変化を求めていない。
鳩山=小沢ラインというのは、政治スタイルはまったく違うが、短期的な政治目標として「東アジアにおけるアメリカのプレザンスの減殺と国防における日本のフリーハンドの確保:霞ヶ関支配の抑制:政治プロセスを語るときに『これまでマスメディアの人々が操ってきたのとは違う言語』の必要性」を認識しているという点で、共通するものがあった。
言葉を換えて言えば、米軍の統制下から逃れ出て、自主的に防衛構想を起案する「自由」、官僚の既得権に配慮せずに政策を実施する「自由」、マスメディアの定型句とは違う語法で政治を語る「自由」を求めていた。
その要求は21世紀の日本国民が抱いて当然のものだと私は思うが、残念ながら、アメリカも霞ヶ関もマスメディアも、国民がそのような「自由」を享受することを好まなかった。
彼ら「抵抗勢力」の共通点は、日本がほんとうの意味での主権国家ではないことを日本人に「知らせない」ことから受益していることである。
鳩山首相はそのような「自由」を日本人に贈ることができると思っていた。しかし、「抵抗勢力」のあまりの強大さに、とりわけアメリカの世界戦略の中に日本が逃げ道のないかたちでビルトインされていることに深い無力感を覚えたのではないかと思う。
政治史が教えるように、アメリカの政略に抵抗する政治家は日本では長期政権を保つことができない。
日中共同声明によってアメリカの「頭越し」に東アジア外交構想を展開した田中角栄に対するアメリカの徹底的な攻撃はまだ私たちの記憶に新しい。
中曽根康弘・小泉純一郎という際立って「親米的」な政治家が例外的な長期政権を保ったことと対比的である。
実際には、中曽根・小泉はいずれも気質的には「反米愛国」的な人物であるが、それだけに「アメリカは侮れない」ということについてはリアリストだった。彼らの「アメリカを出し抜く」ためには「アメリカに取り入る」必要があるというシニスムは(残念ながら)鳩山首相には無縁のものだった。
アメリカに対するイノセントな信頼が逆に鳩山首相に対するアメリカ側の評価を下げたというのは皮肉である。
朝日新聞のコメント依頼に対しては「マスメディアの責任」を強く指摘したが、(当然ながら)紙面ではずいぶんトーンダウンしているはずであるので、ここに書きとめておくのである。

2010-06-02

思考停止と疾病利得

政治向きのことをブログに書くと、しばらく接続が困難になるということが続いている。
べつにサイバー攻撃とかそういうカラフルな事態ではなく、一時的にアクセスが増えて、「渋滞」しちゃうのである。
それだけ多くの人が政治についてのマスメディアの報道に対してつよい不信感をもっており、ミドルメディアに流布している現状分析や提言に注目していることの徴候だろうと私は思う。
今回の普天間基地問題をめぐる一連の報道によって、私は日本のマスメディアとそこを職場とする知識人たちはその信頼性を深く損なったと思っている。
新聞もテレビも、論説委員も評論家も、「複雑な問題を単純化する」「日本の制度的危機を個人の無能という属人的原因で説明する」という常同的な作業にほぼ例外なしに励んでいた。
ほとんどのメディア知識人が「同じこと」を言っているのだから、「他の人と同じことを言っていても悪目立ちはしないだろう」という思考停止がこの数ヶ月のメディアの論調を支配している。
私はその時代を知らないけれど、「大政翼賛会的なものいい」というのはたぶん同時代の人々にこのような種類の徒労感を及ぼしたのだろうと思う。
だが、私はそれを彼らの「知的怠慢」というふうに責める気にはならない。
「複雑な問題を属人的無能という単純な原因に帰して説明した気になる」というのが思考停止の病態であると言っている当の私が「これはメディア知識人たちの知的怠慢という属人的無能のせいである」とその病のよってきたるところを説明したのでは、「ミイラ取りがミイラ」になってしまう。
これだけの数の人々が一斉に同一の病態を示すときには、属人的無能には帰しがたい「構造的理由」があると推理した方がいい。個人の決断を超えた「集合的無意識レベル」でのバイアスがかかっていると考えた方がいい。
「それは何か」を考える方が、知性が不調になっている個人をひとりひとり難詰して回るよりリソースの配分としては経済的である。
メディア知識人たちは何について思考停止に陥っているのか。
「知識人」というのは「一般人より多くの知識・情報をもち、一般人より巧みに推論する」という条件をみたすことで生計を立てている。
だから、「知識人」のピットフォールは「自分が構造的にそこから眼を背けていること、それが論件になることを無意識的に忌避していること」は何かという問いを自分に向けることができないということである。「自分は何を知っているか」を誇示することに急であるため、「自分は何を知りたくないのか」という問いのためには知的リソースを割くことができない。そのような問いにうっかり適切に答えてしまったら、自分の知的威信が下がり、世人に軽んじられ、仕事を失うのではないかと彼らは怖れている。
だが、たいていの場合、「それを主題化することにつよい心理的抑制がかかる論件」の方が「それについてすらすら語れる論件」よりも自分がなにものであるかを知る上では重要な情報を含んでいる。
マスメディアを覆っているこの「構造的無知」は、日本人たちの「自分たちがほんとうはなにものであるかを知りたくない」という欲望の効果であると私は思っている。
前に未知のアメリカ人からメールで普天間問題についての見解を訊かれたことがあり、そのとき私はこんな返事を書いた。
「喫緊の仕事は東アジアにおける米軍のプレザンスが何を意味するかを問うことだと私は考えています。
しかし、日本の『専門家』たちはアメリカのこの地域における外交戦略についての首尾一貫した理解可能な説明をすることと決して試みません。彼らが問うのはどうすればアメリカの要求に応じることができるか、アメリカの軍事行動のために日本領土を最適化するためにはどうすればいいのか、それだけです。彼らにとってアメリカの要求は彼らがそこから出発して推論を始めるべき『所与』なのです。彼らは決して『なぜ?』と問いません。
私はこの症候を『思考停止』と呼んでいます。
日本人の過半数は、『アメリカ人はどうしてこんなふうにふるまうのか?』という問いを立てるたびにこの病的状態に陥ります。
この弱さは歴史的に形成されたもので、私たちのマインドの中に深く根を下ろしています。あの圧倒的な敗戦が、ことアメリカに関する限り、条理を立てて推論する能力を私たちから奪ってしまったのです。
おそらくあなたはそのような弱さを持ち続けることは不自然だとお考えになるでしょう。それは私たちに何の利益ももたらさないから。
けれども、私がこれまで繰り返しさまざまなテクストに書いてきたように、私たちはこの弱さから実は大きな利益を引き出しているのです。
私たちは自分に向かってこう言い聞かせています。私たちとアメリカのあいだには何のフリクションもない、すべてのトラブルは国内的な矛盾に由来するのだ、と。護憲派と改憲派のあいだの対立、平和主義者と軍国主義者の対立、豊かなものと貧しいものの対立、老人と若者の対立・・・などなどこのリストはお望みならいくらでも長くすることができます。
真の問題は日本国内における対立に由来する。そして、国内的対立が問題である限り、私たちはそれをハンドルすることができる。
『私たちはそれをハンドルすることができる。』
これが私たちがそれを国際社会に向かって、とりわけアメリカ人に向かって焦がれるほどに告げたい言葉なのです。
ご存知のように、普天間基地問題について、日本のメディアはアメリカの東アジア軍略についても、日本領土に基地があることの必然性についても、ほとんど言及していません。彼らは鳩山首相の『弱さ』だけにフォーカスしています。彼らは首相を別の人間に置き換えさえすれば、私たちはまたこの問題をハンドルできるようになる、そう言いたいのです。普天間問題はなによりも国内問題である、と。
日本人がアメリカ人と向きあうときに感じる『弱さ』はこの『想像的な』主権によって代償されています。私たちはアメリカとのあいだにどのような外交的不一致も持たない。すべての混乱は日本国内的な対立関係が引き起こしているのだ。そのようにして、私たちは私たちに敗戦の苦い味を私たちに思い出させるアメリカ人をそのつど私たちの脳から厄介払いしているのです。
私はこのような急ぎ足の説明では日本人がアメリカ人と向きあうときの奇妙なマインドセットを説明するのに十分であるとは思いません。しかし、私はあなたがこの説明で日本人を理解するとりあえずの手がかりをつかんでくれることを希望します。」
アメリカ人の友人がこの説明でどこまで事情を理解してくれたのか、私にはわからない。
「そのような説明をこれまで聞いたことがなかった」という感想が届いたが、「それで納得した」とは書いていなかった。
ややこしい話だから、メール一通で説明できるとは私も思っていない。
とりあえず言えるのはメディアの「集団的思考停止」は日本人の欲望の効果だということである。
この思考停止は「私たちは主権国家であり、私たちは外交的なフリーハンドを握っている」という言葉を国際社会に向けて、アメリカに向けて、なにより自分自身に向けて告げたいという切なる国民的願いが要請しているのである。
事実を知れば自己嫌悪に陥るとき、私たちは自分自身についてさえ偽りの言明を行うことがある。
それは人性の自然であるので、それを咎めることは誰にもできない。
けれども、散文的な言い方を許してもらえば、自己欺瞞が有用なのは自分を偽ることによって得られる「疾病利得」が、適切な自己認識のもたらす自己嫌悪の「損失」を上回る限りにおいてである。
疾病利得は「自分が詐病者であることを知っている」という「病識」の裏づけがある限りかなり長期に維持できる。けれども、自分を偽りながら、かつそのことを忘れた場合、それがもたらす被害は疾病利得をいずれは上回ることになる。
私たちはもうその損益分岐点にさしかかっているのだと思う。
今回のマスメディアの「集団的思考停止」は私たちがすでに損益分岐点を一歩超えてしまったことのおそらくは徴候である。

2010-06-01

さよならアメリカ、さよなら日本

新聞の電話取材で、またまた米軍基地のことを訊かれる。
グアムへの米軍基地の移転コストを日本政府が肩代わりしたり、「共同開発」名目で米軍の支出を予算的に「思いやったり」することについてどう思うかというお訊ねである。
しかたないんじゃないの、とお答えする。
「厭です」といって払わずに済むものなら、とっくにそうしているはずである。
「厭です」と言えない事情があるから、泣く泣く「みかじめ料」を出しているのである。
もちろん近代国家同士のあいだの話であるから、別に米軍が日本にドスをつきつけて「払わんと痛い目にあわせるど、こら」と凄んでいるわけではない。
「払わないと、そちらさまがとっても『たいへんな目』に遭われるのではないでしょうか。いや、われわれはまあよそさまのことですから、どうだっていいと言えばどうだっていいんですけど、まあそちらさまとも先代からの長いお付き合いですから、老婆心ながら・・・」と言われているのである。
米軍に日本から出て行って欲しい。
これは沖縄県民と日本のそれ以外の地域の「ふつうの人」の正直な気持ちである。
それなのにアメリカは「出て行かない」。
別に無理強いに居座っているわけではない。
最後の最後で、日本政府が「やっぱりいてください」と懇願しているというかたちになってこうなっている。
なぜ、最後の最後で日本政府が「やっぱりいてください」と懇願するのか。その理由を記者のかたに懇々とご説明する。
理由は「アメリカ軍がいなくなったあと」についてのシミュレーションをすればわかる。
アメリカは沖縄に核兵器を置いている。
もちろん、公式には誰も認めないが、これは「沖縄に核はない」と考えるよりも蓋然性が高い推理であるので、私はこれを採用する。
別に政治的立場とは関係ない。純然たる「蓋然性」の問題である。
「沖縄には核がある」と想定した方が「ない」と想定するより、「説明できること」の数が多いので、採択するのである。
「ない」と想定した方があれこれの日米両政府の「よくわからないふるまい」をよりうまく説明できるのであれば、私は喜んで「沖縄には核はない」という言明を支持するであろう。
沖縄には核兵器がある。
65年前から、ずっと、ある。
それが東アジアにおけるアメリカの「抑止力」の正体である。
だいたい「抑止力」というのはもっぱら「核抑止力」という言い方でしか使われない言葉である。
もしかすると「あるように見せかけて、実はない」のかも知れない。
けれども、「あるように見える」せいで、「沖縄の核」はソ連、中国、北朝鮮などに対しては十分抑止的に機能してきた。
たぶん「あるように見えるけれど、ない」というのが核抑止力の使い方としてはいちばんクレバーなのだろう(あると、盗まれたり、爆発したりする可能性があるし、膨大な管理コストがかかるけれど、「あるように見えて、実はない」のなら、リスクもコストもゼロだからである)。
だから、日米としては理想的には「疑心暗鬼の眼にはあるように見えるが、実はない」状態にもってゆきたい。
けれども「いつ」そのシフトがあったかがわかっては身も蓋もない。
「あるようなないような状態」をできるだけ長く引き延ばしたい。
だから、沖縄からの米軍基地の撤去は「抑止力」戦略を取る限りは不可能な選択になる。
日本には憲法九条があり、(空洞化したとはいえ)非核三原則がある。
米軍基地のない日本列島には100%の確率で「核兵器はない」と推理できる。
現在の沖縄に核兵器はないかもしれない。でも、「あるかもしれない」と思わせることには成功している。
日米の従属関係を勘案すると、日本政府が自国領内に他国軍が核兵器を配備しているかどうか「知らない」ということは大いにありうる。
ふつうの主権国家ではありえないことが、日米関係なら「ありうる」。
中国も北朝鮮もそれはよくわかっている。
たぶん米軍関係者は鳩山首相に沖縄でこう囁いたのではないかと私は想像している。
「首相、ここだけの話ですけどね、実は沖縄には核兵器なんか、ないんです。でも『あるように』見せかけている。そちらだって、憲法九条を維持し、非核三原則を掲げているお国だ。その上で『核抑止力』を機能させようとしたら、どう考えても、『ないけど、あるように見えている』という状態がベストでしょ。でも、これがあなた、国外に米軍基地が全部移転してごらんなさい。『ない』ということが世界中にわかってしまうじゃないですか。そのあとも引き続き列島に『核抑止力』を機能させようとしたら、日本政府のオプションは事実上一つしかありませんよ・・・」
そう、オプションは一つしかない。
それは(考えたくないが)自主核武装である。
憲法九条二項を廃棄し、非核三原則の看板をおろして、核武装する。
それ以外の選択肢は論理的にはない。
通常兵器で「核なみ」の抑止力を担保しようとしたら、「先軍主義」を採用して、医療も教育も福祉もすべて後回しにして軍備を充実させ、徴兵制の導入も考慮せねばならないが、そのような強引な政策を貫徹できるだけの体力は今の日本にはない。だいいち、そのような政策を掲げた政党が選挙で勝てる見込みはない。
核兵器はコストの最も安い兵器である(だから世界中の貧乏国が争って核武装しようとする)。
だから、日本の社会システムを「このまま」のレベルに保ち、かつ十分な抑止力をもつためには核武装しか選択肢がない。
理論的にはそうだが、そのような国民的合意が平和裡に形成される確率もまたない。
ないないづくしである。
護憲派は死に物狂いで反対運動を組織するだろうし、左翼勢力も一斉に息を吹き返すだろう。まさしく国論を二分するような騒ぎになり、政治不信は募り、経済も停滞し、国民のあいだの相互信頼は崩れ、日本社会は回復不能の傷を負い、にもかかわらず核武装への合意形成には至らない。だいいち「核なき世界」をめざすオバマ大統領が許すはずがない。
つまり、「核武装のための合意形成」は「試みるだけ無駄」なのである。
通常兵器による抑止力形成はコスト的に不可能。コスト的に引き合う核武装は国論の統一ができないので不可能。
つまり、抑止力戦略の有用性を信じる限り、私たちには「現状維持」しか打つ手がないのである。
そのうちもしかしたら、アメリカの覇権が瓦解して、アメリカが東アジアから撤退し、軍事的緊張そのものが消滅するかも知れない。中国の民主化が進んで人民解放軍の影響力が抑制されるかもしれない。北朝鮮の独裁体制が崩壊して、南北統一民主国家が半島にできるかもしれない。オバマ大統領の「核なき世界」構想に世界中の国が賛同して、核兵器の存在しない世界になるかもしれない。
何が起こるかわからない。
鳩山首相はたぶん沖縄で米軍関係者にこう言われたのである。
「いや、どうしても出て行けとおっしゃるなら、われわれも沖縄から出て行きますよ。でもね、フェイクではあれ核抑止力がなくなった日本列島の国防について、あなた何かプランお持ちなんですか?核武装はおたくの国内事情からしてありえないでしょう。われわれだってそんなもの日本に許すわけにはゆかないし。『東アジア共同体』?おお、結構ですな。でもね、日米安保条約を維持したままの東アジア共同体構想なんか中国が呑みませんよ。ということは、あなたね、われわれが沖縄から出て行くというのは、日米関係は『これでおしまい』ということなんですよ。そのへんのことわかった上で、『国外』とかおしゃってたのかなあ・・・いや、そんな青い顔しないで。われわれだってヤクザじゃないんだ。いつまでも居座る気じゃないですよ。東アジアの軍事的緊張が緩和したらですね、いつでもおいとまする用意はある。その日をわれわれもあなたがたも待望していることに変わりはない、と。ですからね、日米手を取り合ってアジア全域が民主化される日をともに待ち望もうではありませんか。」
そう聞かされて、「ふはあ」と深いため息をついたのではないか、と私は想像するのである。
それくらいの想像は新聞を斜め読みしているだけでもできると思うけど、と記者にはお答えする。
われわれは外交的なフリーハンドをもった主権国家ではない。
繰り返し書いているとおり、日本はアメリカの軍事的属国である。
そのことを直視するところから始めるしかない。
「何ができないのか」を吟味することなしに「何ができるのか」についての考察は始まらない。