スーさんのツイッターにサンケイのネットニュースのことが書いてあった。
そういえば、その件についての電話取材を受けた。
別にコメントすることはなく、言うべきことはブログに書いた通りなので、ネット上に発表したことを引用されるのはご自由に、とお答えしたら、こんな記事になっていた。
仏文学者の内田樹さん「スト」宣言に賛否 売れっ子新刊ラッシュに待った
「日本辺境論」などのベストセラーで知られる仏文学者で神戸女学院大教授の内田樹(たつる)さんが、ブログ上で一部の自著の刊行にストップをかけることを宣言し、波紋が広がっている。旬の書き手に群がり、出版点数を増やす「バブル」を生み出しては、すぐにはじける。出版界のそんな“悪弊”を批判する行動だが、書き手たちの賛否は割れている。(海老沢類)
発端は大手書店の店長が書いた8月12日付のブログだ。「伝える力」が100万部を突破したジャーナリスト、池上彰さんらの「バブル」に触れ、人気の著者に依頼が殺到する結果、質の落ちた本が出回って著者も疲弊していくとして、その悪循環を批判した。
十数点の出版企画を抱える売れっ子の内田さんはすぐに反応した。13日付のブログに「大量の企画が同時進行しているのは、編集者たちの『泣き落し』と『コネ圧力』に屈したためである。(略)『バブルのバルブ』を止めることができるのは、書き手だけ」などと記し、4冊分の校正刷りの確認を“塩漬け”すると宣言。14日付で「日程がタイトであれば、書きもののクオリティはあらわに下がる」と理由を説明した。
一方、店長に「バブル」と指摘された脳科学者の茂木健一郎さんは自身のブログで変わらず執筆を続ける姿勢を強調。経済評論家の勝間和代さんもブログで「当事者がコントロールできるものではない」と、内田さんとは対照的な考えを示すなど、反響が広がっている。
騒動の背景には、不況下で加速する新刊ラッシュがある。書籍と雑誌の販売金額は昨年、21年ぶりに2兆円を割り込み、返品率は4割を超えた。売り上げの減少を補うため、出版社は自転車操業的に点数を増やしており、昨年の新刊は過去最多の7万8555点。頭数をそろえるため、引き出しが豊富で部数が見込めるビッグネームに頼る傾向に拍車がかかる。
「途中で企画がストップすれば、収益見込みの修正が必要」(出版関係者)だけに、各社の編集者はほかの書き手に賛同の動きが広がるのを警戒する。ただ、内田さんを支持する専門家は少なくない。
早稲田大大学院の永江朗教授(出版文化論)は「安価で手軽な編集ができる新書ブームがあった10年ほど前を境に、メガヒットした書き手に安易に依頼する傾向が加速した。対談や講演のテープを起こしただけの安直な作りの本が増えれば、読者離れを早め、出版文化の先細りを招くだけ。業界は今回の問題提起を真摯(しんし)に受け止めるべきだ」と警鐘を鳴らしている。(引用ここまで)
繰り返し書いているように、私は一般論を語っているのではなくて、「私自身について言えば」という限定の中で申し上げた話である。
「こんなペースで本を出すのは厭だ」ということを言っているだけである。
書くことが苦役だから、それを軽減してくれと言っているのではない。
御存じのように、私は書くことが大好きである。
江さんからは「センセみたいなのを『書きスケ』いうんですわ」とよく言われる。
書くのが大好きなのである。
常人の域を超えて好きなのである。
大好きだから、「やめろ」と言われても書く。
おまえのものなんか誰も読まないと言われてもじゃんじゃん書く。
でも、「やれ」と命令されると急に書きたくなくなる。
そういうもんでしょ。
どんなに好きなことでも、人に強制されたり、急かされてまでやりたくはない。
というより、好きなことだからこそ、人に急かされては、したくない。
だから、「急かすの止めてね」と編集者のみなさまにお願いしているのである。
書く仕事を私にも楽しませて頂きたい。
楽しませてくださるなら、そのお礼にできる限りのことは致します、と。
ごくまっとうなお願いだと思うのだが、どうであろう。
一昨日の高橋源一郎さん、渋谷陽一さんとの鼎談の最後の方のテーマは「シュリンクしてゆく社会で、市民はどんなふうにすれば尊厳を持って、かつ愉快に生きてゆくことができるか」ということであった。
経済成長が止まったらもうおしまいだとか、人口がこれ以上減ったらもうおしまいだとか、国際社会でこれ以上侮られたらもうおしまいだ、とか「もうおしまいだ」的なワーディングで危機を論じる人がいる。
たいへんに多い。
私はこういう語り口は危険だと思う。
というのは、そういうふうな言葉遣いで一度危機論を語ってしまった人は、警鐘を乱打したにもかかわらず事態が危機的になったときに「ほら、言ったことじゃない」と言う権利を確保してしまうからである。
日本社会は不調になることによって、それを正しく予見した自分の知性の好調であることが証明される。
そういう条件だと、危機論者は「もうおしまい」状態の到来を髪振り乱して押しとどめようとする仕事にはそれほど熱心にはなってくれない。
そういう仕事は危機の到来を看過し黙許し、危機論者の必死の訴えに耳を貸さなかった諸君が後悔の涙にくれながらやればよいのだ。
そういうふうに考えてしまう。
これは属人的な資質の問題ではなく、「危機論を語る」ということのコロラリーなのである。
「俺の言うことをきかないと、危機になるぞ」という語り口で危機論を語ったのだが、誰も耳を傾けてくれなかったという苦い経験を持つ人は、いざ危機が到来したときに、つい「ほら、だから言ったじゃないか」と(口に出さなくても)思ってしまう。
それどころか、危機の到来をはやめるような要因があれば、ついそれに「加担」してしまうことさえある。
そういうことは無意識的に行われる。本人も自分が「危機の到来を加速するようなふるまい」をしていることには全然気づいていない。
でも、危機論者にとって危機の到来は個人的には「喜ばしいこと」なのである(なにしろ彼らの未来予測の正しかったことが事実によって証明されるからである)。
そういうのはあまりよくない。
つねづね申し上げている通り、「ゴジラが来るぞ」と危機の切迫を訴え、備えの喫緊であることを論じたにもかかわらず「バカじゃないの」と嘲笑された科学者が、その予見の正しさを証明するためには、どうしたって実際にゴジラが来て都市を踏みにじる場面が必要なのである。
彼が無意識のうちに(夢の中で、とか)「ゴジラの到来」を願ってもそれを責める権利は誰にもない。
危機のときに、「だから、あのときああしていればよかったんだよ」というようなあとぢえを語るのは100%時間の無駄である。
もう転轍点は過ぎてしまったのである。
過去に戻ってやり直すことはできない。
与えられた状況でベストを尽くすしかない。
「経済成長が止まったらおしまいだ」と言っている人は経済成長が止まった時点で、自分はもう何の役にも立たない。何の政策も提言できない。何のビジョンも提示できないと宣言している。
だって、「おしまい」というのは、政策提言もビジョンもプロジェクトもとにかく生産的なことは「なんにもできない」状況を指すからである。
そのときにまだ次々と効果的な「打つ手」が思いつくようであるなら、それは「おしまい」の定義に悖る。
実際には人口が減ろうと、経済成長が終わろうと、国際社会で侮りを受けようと、それでも私たちは生きていかなければならない。
生きてゆかなければならない以上、「それでも自尊感情を保ち、気分よく生きるためにはどうすればいいか」という問いに知的資源を投じるのは生産的なことだ。
高橋さんとそういう話をした。
軍事用語を使って言えば、これからの日本は「後退戦」を戦うことになる。
「百戦百勝以外はありえない」という『戦陣訓』のようなことを言う人間には後退戦は戦えない。
だって、その立場からすれば後退戦などというものは「ありえない事態」だからだ。
「ありえない事態」における適切なふるまいとは何かというような問いは、彼らには決して主題化しない。
けれども、私たちはいま、それを主題として考究すべき時点にまで立ち至っている。
無限に成長し続け、無限に人口が増え続け、無限に税収が増え続ける社会などというものは原理的に存在しない。
そのような存在しないものを基準にして「そうでなくなったらおしまいだ」というようなことを言って青ざめるのは愚かなことである。
繰り返し言うが、日本はこれから「縮んでゆく」。
その過程でさまざまなフリクションが生じるだろう。
それがもたらす損害を最小に抑制し、「縮むこと」がもたらすメリットを最大化する工夫を凝らすこと、それが私たちにとってもっとも緊急な公的課題ではないのか。
私が「そんなにたくさん本を出さなくてもいいじゃないか」と言うのも、実は同じ文脈での話である。