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2010-10-11

公共性と痩我慢について

高橋源一郎さんの「午前0時の小説ラジオ」が復活して、今朝は「公的」と「私的」という論件が採り上げられた。
ぼくもそれについて高橋さんに追随して言いたいことがある。
まず、高橋さんの「ラジオ」から全文を引用。

「尖閣諸島」問題(中国にとっては「釣魚島」問題)でマスコミに「売国」の文字が躍った。「尖閣諸島はわが国固有の領土」といってる首相が「売国奴」と呼ばれるのだから、「中国のいってることにも理はある」といったらどう呼ばれるのだろう。非国民?
「尖閣」諸島はもともと台湾に付属する島々で、日清戦争後のどさくさに紛れて、下関条約で割譲されることになった台湾の傍だからと、日本が勝手に領有を宣言した、ということになっている。だとするなら、台湾を返却したなら、「尖閣」も返却するのが筋、というのも無茶な理屈じゃない。
というか、領土問題は「国民国家」につきまとう「不治の病」だ。日本も中国も、同じ病気なのだ。国家は病気(狂気)でいることがふつうの状態なのである。国民は、頭のイカレた国家に従う必要はない。正気でいればいいのだ。だが、今日したいのはその話ではない。関係はあるけれど。「尖閣」問題のような、あるいは、「愛国」や「売国」というような言葉が飛び交う問題が出てくると、ぼくは、いつも「公と私」はどう区別すればいいのだろうか、とよく思う。「公共」というような言葉を使う時にも、自分で意味がわかっているんだろうかと思う。そのことを考えてみたい。
この問題について、おそらくもっとも優れたヒントになる一節が、カントの『啓蒙とは何か』という、短いパンフレットの中にある。それは「理性の公的な利用と私的な利用」という部分で、カントはこんな風に書いている。
「どこでも自由は制約されている。しかし啓蒙を妨げているのは…どのような制約だろうか。そしてどのような制約であれば、啓蒙を妨げることなく、むしろ促進することができるのだろうか。この問いにはこう答えよう。人間の理性の公的な利用はつねに自由でなければならない。理性の公的な利用だけが、人間に啓蒙をもたらすことができるのである。これに対して理性の私的な利用はきわめて厳しく制約されることもあるが、これを制約しても啓蒙の進展がとくに妨げられるわけではない。さて、理性の公的な利用とはどのようなものだろうか。それはある人が学者として、読者であるすべての公衆の前で、みずからの理性を行使することである。そして理性の私的な利用とは、ある人が市民としての地位または官職についている者として、理性を行使することである。公的な利害がかかわる多くの業務では、公務員がひたすら受動的にふるまう仕組みが必要なことが多い。それは政府のうちに人為的に意見を一致させて公共の目的を推進するか、少なくともこうした公共の目的の実現が妨げられないようにする必要があるからだ。この場合にはもちろん議論することは許されず、服従しなければならない。」ここでカントはおそろしく変なことをいっている。カントが書いたものの中でも批判されることがもっとも多い箇所だ。要するに、カントによれば、「役人や政治家が語っている公的な事柄」は「私的」であり、学者が「私的」に書いている論文こそ「公的」だというのである。ぼくも変だと思う。実はこの夏、しばらく、ぼくはこのことをずっと考えていた。そして、結局、カントはものすごく原理的なことをいおうとしたのではないかと思うようになったのだ。たとえば、こういうことだ。日本の首相(管さん)が「尖閣諸島は日本固有の領土だ」という。その場合、首相(管さん)は、ほんとうにそう思ってしゃべったのだろうか。あるいは、真剣に「自分の頭」で考えて、そうしゃべったのだろうか。そうではないことは明白だ。首相は「その役職」あるいは「日本の首相」にふさわしい発言をしただけなのである。
自民党や民主党や共産党や公明党やみんなの党の議員が、政治的な問題について発言する。それが「問題」になって謝ったりする。その時、基準になるのは、彼らの個人的な意見ではない。「党の見解」「党員の立場」だ。それらを指して、カントは「私的」と呼んだのである。
国家や戦争について話をするから自動的に「公的」や「公共的」になるわけではない。しかし、それを「私的」と呼ぶのはなぜなのだろう。それは、その政治家たちの考えが一つの「枠組み」から出られないからだ。そして、その「枠組み」はきわめて恣意的なのである。
「尖閣」問題を、日本でも中国でもない第三国の人間が見たらどう思うだろう。「そんなことどうでもいい」と思うだろう。国家を失った難民が見たらどう思うだろう。「そんなくだらないことで罵りあって、馬鹿みたい」と思うだろう。「私的な争い」としか彼らには見えないはずだ。
では「私的」ではない考えなどあるのだろうか。なにかを考える時、「枠組み」は必要ではないだろうか。カントの真骨頂はここからだ。「公的」であるとは、「枠組み」などなく考えることだ。そして、一つだけ「公的」である「枠組み」が存在している。それは「人間」であることだ。
『啓蒙とは何か』の冒頭にはこう書いてある。
「啓蒙とは何か。それは、人間がみずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないかではなく他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから、人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。」
「自分の頭で」「いかなる枠組みからも自由に」考えることの反対に「他人の指示を仰ぐ」ことがある。カントは別の箇所で「考えるという面倒な仕事は、他人が引き受けてくれる」とも書いた。それは、既成の「枠組み」に従って考えることだ。それが「公的」と「私的」との違いなのである。
国家や政治や戦争について考えるから「公的」なのではない、実はその逆だ。
それが典型的に現れるのが領土問題なのである。
「日本人だから尖閣諸島は日本の領土だと考えろ」と「枠組み」は指示する。同じように「中国人だから釣魚島は中国領だと考えろ」と別の枠組みも指示する。もちろん、ぼくたちは、思考の「枠組み」から自由ではないだろうし、いつも「人間」という原理に立ち戻れるわけでもないだろう。知らず知らずのうちに、なんらかの「私的」な「枠組み」で考えている自分に気づくはずなのだ。「公」に至る道は決して広くはないのである。
最後に少し前に出会ったエピソードを一つ。深夜、酒場で友人と小さな声で領土問題について話していた。あんなものいらないよ、と。すると、からんできた男がいた。男はぼくにいった。「おまえは愛国心がないのか。中国が攻めてきた時、おまえはどうする。おれは命を捨てる覚悟がある」だからぼくはこう答えた。
「ぼくには、家族のために投げだす命はあるが、国のために投げ出す命なんかないよ。あんたは、領土問題が出てきて、急にどこかと戦う気になったようだが、ぼくは、ずっと家族を守るために戦ってる。あんたもぼくも『私的』になにかを大切に思っているだけだ。あんたとぼくの違いは、ぼくは、ぼくの『私的』な好みを他人に押しつけようとは思わないことだ。あんた、愛国心が好きみたいなようだが、自分の趣味を他人に押しつけるなよ。うざいぜ」
ぼくも酔っぱらうとこういうことをいうんだなと思いました。訂正はしません。以上です。ご静聴ありがとう。

ぱちぱち。
高橋さんの素敵なスピーチをご紹介した。
僕がこれを引用したのは、カントとずいぶん近いことを(全く違う文脈で)述べた人が日本にもいたことを思い出したからである。
時代的には百年ほど後になるが、福沢諭吉である。
以前にこのブログでも紹介したが、その『痩我慢の説』の冒頭に福沢はこう書いている。
「立国は私なり、公に非ざるなり」
国民国家をつくるのはそれぞれのローカルな集団の「私」的な事情である。だから、国家というのは、本質的に「私的なもの」だ。
福沢はそう言い切る。
「なんぞ必ずしも区々たる人為の国を分て人為の境界を定むることを須(もち)いんや。いはんやその国を分て隣国と境界を争うにおいてをや。」
国境線を適当に引いて、「こっちからこっちはうちの領土だ、入ってくるな」とか言うのは所詮「私事」だと言っているのである。
「いはんや隣の不幸を顧みずして自ら利せんとするにおいてをや。いはんや国に一個の首領を立て、これを君として仰ぎこれを主として事え、その君主のために衆人の生命財産を空しうするがごときにおいてをや。いはんや一国中になお幾多の小区域を分ち、毎区の人民おのおの一個の長者を戴きてこれに服従するのみか、つねに隣区と競争して利害を殊にするにおいてをや。」
国境だの国土などというものは、人間が勝手にこしらえあげた、ただの「アイディア」だと福沢は言い放つ。
「すでに一国の名を成すときは人民ますますこれに固着して自他の分を明かにし、他国政府に対しては恰(あたか)も痛痒(つうよう)相感ぜざるがごとくなるのみならず、陰陽表裏共に自家の利益栄誉を主張してほとんど至らざるところなく、そのこれを主張することいよいよ盛なる者に附するに忠君愛国の名を以てして、国民最上の美徳と称するこそ不思議なれ。」(福沢諭吉、「痩我慢の説」、『明治十年丁丑公論・痩我慢の説』、講談社学術文庫、1985年、50-51頁)
だが、福沢のラディカリズムが輝くのは、話が「ここで終わる」のではなく、「ここから始まる」からである。
国民国家というのは単なる私念にすぎない。
だが、困ったことに、私念にも固有のリアリティはある。
「すべてこれ人間の私情に生じたることにして天然の公道にあらずといへども、開闢(かいびゃく)以来今日に至るまで世界中の事相を観(み)るに、各種の人民相分れて一群を成し、その一群中に言語文字を共にし、歴史口碑(こうひ)を共にし、婚姻相通じ、交際相親しみ、飲食衣服の物、すべてその趣(おもむき)を同じうして、自ら苦楽を共にするときは、復(ま)た離散すること能はず。」
想像の共同体とはいいながら、起居寝食を共にしているうちに「情が移る」ということはある。それもまた人性の自然である。
福沢は気合いの入ったリアリストであるから、そこでぐいっと膝を乗り出してこう言うのである。
国民国家なんてのはただの擬制だよ。だがね、人間というのは弱いもので、そういうものにすがらなけりゃ生きていけない。その必死さを俺は可憐だと思うのさ。
「忠君愛国は哲学流に解すれば純乎たる人類の私情なれども、今日までの世界の事情においてはこれを称して美徳といはざるを得ず。すなわち哲学の私情は立国の公道にして、(・・・)外に対するの私を以て内のためにするの公道と認めざるはなし。」
立国立政府はカテゴリカルにはローカルでプライヴェートなことがらであるが、「当今の世界の事相」を鑑(かんが)みるに、これをあたかも「公」であるかに偽称せざるを得ない、と。
論理的には私事だが、現実的には公事である。
国家は私的幻想にすぎない。しかし、これをあたかも公道であるかのように見立てることが私たちが生き延びるためには必要だ。
別に国運が隆盛で、平和と繁栄を豊かに享受しているようなときには、そんなことを考える必要はない。
けれども、国勢が衰え、中央政府のハードパワーが低下し、国民的統合が崩れかけたようなときには、「国家なんか所詮は私的幻想ですから」というような「正しいシニスム」は許されない。
そういうときは、「間違った痩我慢」が要求される。
「時勢の変遷に従て国の盛衰なきを得ず。その衰勢に及んではとても自他の地歩を維持するに足らず、廃滅の数すでに明かなりといへども、なお万一の僥倖(ぎょうこう)を期して屈することを為さず、実際に力尽きて然る後に斃(たお)るるはこれまた人情の然らしむるところにして、その趣を喩(たと)へていへば、父母の大病に回復の望なしとは知りながらも、実際の臨終に至るまで医薬の手当を怠らざるがごとし。(・・・) さすれば自国の衰頽に際し、敵に対して固(もと)より勝算なき場合にても、千辛万苦、力のあらん限りを尽し、いよいよ勝敗の極に至りて始めて和を議するか、もしくは死を決するは立国の公道にして、国民が国に報ずるの義務と称すべきものなり。すなはち俗に言う痩我慢なれども、強弱相対していやしくも弱者の地位を保つものは、単にこの痩我慢に拠らざるはなし。啻(ただ)に戦争の勝敗のみに限らず、平生の国交際においても痩我慢の一義は決してこれを忘れるべからず。(・・・)我慢能(よ)く国の栄誉を保つものといふべし。」
立国は私情である。痩我慢はさらに私情である。
けれども、これ抜きでは頽勢にある国家は支えきれない。
「痩我慢の一主義は固より私情に出ることにして、冷淡なる数理より論ずるときはほとんど児戯に等しといはるるも弁解に辞なきがごとくなれども、世界古今の実際において、所謂(いはゆる)国家なるものを目的に定めてこれを維持保存せんとする者は、この主義に由らざるはなし。」
「私事」を「公共」に変成するのは、私情としての「痩我慢」なのだ。
福沢はそう言う。
福沢のこのときの文脈を見落としてはいけない。
この文の宛先は一般国民ではなく、勝海舟と榎本武揚という二人の旧幕臣だからである。
これは「私信」なのである。
二人の傑出した人物が、幕臣でありながら、旧恩を忘れて新政府に出仕し顕官貴紳に列されたことを難じて福沢はこの一文を草した。
勝や榎本のような人間は「シニカルな正論」を吐いてはならない。「無茶な痩我慢」をしてみせて、以て百年国民の範となる義務がある。
ロールモデルというのがなきゃ共同体は保たないんだよ、と福沢は言っているのである。
そういう仕事は凡人にはできない。でも、あんたたちならできたはずだ。
人間の桁が違うんだから。
繰り返し言うが、発生的に国家は私事にすぎない。
だが、誰かが「治国平天下」のために生きるということをおのれの規矩として引き受けるとき、その個人の実存によって、「私事としての国家」に一抹の公共性が点灯する。
国家というのは成立したはじめから公共的であるのではなく、その存続のために「痩我慢」をする人間が出てきたときにはじめて公共的なものに「繰り上がる」。
国家は即自的に公共的であるのではない。
私事としての国家のために、身銭を切る個人が出てきたときに公共的なものになるのである。
公共性を構築するのは個人の主体的な参与なのだ。
誤解して欲しくないが、「だからみんな国家のために滅私奉公しろ」というような偏差値の低い結論を導くために私はこんなことを書いているのではない。
「だからみんな・・・」というような恫喝をする人間は「国家が本質的には私事である」という福沢の前提をまったく理解できていない。
彼らは自分が何の関与もしなくても、公共物としての国家は存在し、存在し続けると思っている。
それは「誰か」が自分の手持ちのクレジットを吐き出して、公共性のために供与することによってしか動き出さないのである。
そのような「痩我慢」は純粋に自発的な、主体的な参与によってしか果たされない。
痩我慢というのは、徹底的に個人的なものである。
そして、福沢は行間においてさらににべもないことを言っている。
そのような「痩我慢」を担いうるのは例外的な傑物だけである。凡人にはそんな困難な仕事は要求してはならない。
というのは、凡人に我慢をさせるためには強制によるしかないからだ。
政治的恫喝であれ、イデオロギー的洗脳であれ、そのような外的強制による我慢には何の価値もない。
そのような不純なものによって「私事としての国家」が公共性を獲得するということはありえない。
現に、北朝鮮では国民的な規模で「我慢」が演じられている。だが、外的強制による「我慢」が全体化するほど、この国はますます公共性を失い、「私物」化している。
「こんなこと、ほんとうはしたくないのだけれど、やらないと罰されるからやる」というのはただの「我慢」である。
それは何も生み出さない。
「こんなこと、ほんとうはしたくないのだが、俺がやらないと誰もやらないようだから、俺がやるしかないか」という理由でやるのが「痩我慢」である。
それは「選ばれた人間」だけが引き受ける公共的責務である。
高橋さんに向かって「俺は国のために死ねる」とうそぶいた酔漢は「そういうことを言わないと罰される」という恐怖によってそのような大言壮語を口にしている。
動機は(本人は気づいていないが)処罰への恐怖なのである。
自分が「我慢して公共的なふりをしないと罰される」という恐怖を実感しているからこそ、同じの言葉が見知らぬ隣りの客にも効果的な恫喝をもたらすだろうと信じているのである。
「痩我慢」している人間は決してそのような言葉を他人には告げない。