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2010-09-09

小沢一郎は勝つのか?

民主党の代表選が近づいて、マスメディアの論調が乱れてきた。
当初はメディアは反小沢一色で、ことあるごとに「政治とカネ」問題を言挙げしていた。それが「小沢もダメだが、菅もダメで、どちらへ転んでも不毛の選択」から「こうなったら一度小沢にやらせてみたら」論の受容へと微妙にシフトしはじめている。
私は小沢一郎の政治手法に対してはすこしも共感できないけれど、「田中派政治的なもの」への民意の揺れ戻しがあることについては歴史的必然性があると思う。
田中派政治は「ばらまき政治」と言われた。
ばらまくためには原資が要るので、それは同時に贈収賄に対するワキの甘い「金権政治」として指弾を浴びた。
ばらまく政治家からすれば、「金のあるところからないところに回しているのだから、これこそ社会的フェアネスだ」というロジックがある。
だから、「政治とカネ」と一律で批判されるが、実際には「あるところからないところに金が流れてゆく」ということ自体については、誰も文句があるわけではない。
その過程で多少「流れの飛沫」が政治家の懐に飛び込むとしても、それは許容範囲である。
ただ、「流れの飛沫」を越して、流れの一部が恒常的に「私的な貯水池」に誘導されるような構造になると、「許容しがたい」という気分が横溢してくる。
「飛沫が飛び込む」ことと「私的な貯水池に貯め込む」ことのあいだに本質的な差があるわけではない。
けれども、不思議なものでそれは「感知」されるのである。
うちの兄は「会社が儲かりだしたときに社長がベンツに乗るような会社は長くない」とよく言っていた。
ベンツを経費で買えるだけの売り上げがあり、計理士も経費どんどん使ってくださいと言っているのだから、何の問題もないようなのだが、「そういうことをすると、社員の士気が微妙に下がる」のだそうである。
自分たちの努力で会社が儲かり出したのに、その報酬の配分に偏りがあるのではないか。社長ひとりが「いい思い」をするというのでは、なんかやる気がしないぜ・・・という微妙な気分が社内に蔓延するのだそうである。
そうなると、細かいところでミスが起こり、サービスの質が微妙に劣化し、オーバーアチーブ気味の社員がいつのまにか会社を去り、気がつくとゆっくり業績が下り坂になっている。
「メンバーの士気が微妙に下がる」ということのもたらすネガティヴな効果を人々は軽んじる傾向にあるが、たいていの場合組織がつぶれるのはシアトリカルな外圧や驚天動地の破局によってではなく、メンバーたちの「なんとなくやる気がしない」という日常的な気分の蓄積によってなのである。
それは国民国家の場合も変わらない。
「政治とカネ」が問題になるのは、「問題にしてよい客観的基準値」があるからではない。
問題は国民の「やる気」が(端的には納税意欲が)どの程度傷つけられるかにかかわっている。
「飛沫」がじゃんじゃん政治家の懐に飛び込んでいても、「金のあるところからないところに回っており、社会的フェアネスが実現されつつある」という実感があれば、それは「適正なコミッション」とみなされる。
たいした金額ではなくでも、国民の側が「さっぱり金が回ってこない」というふうに感じていれば、それは「貧者の膏血を絞って私腹を肥やしている」とみなされる。
問題は「気分」なのである。
だからクレヴァーな経営者は質素な家に住んで、質素な服を着て、めざしを食べている写真を雑誌に載せると、それだけで社員の士気が微妙に向上するという人情の機微を知っている。
土光敏夫がクレヴァーなのは「めざしを食べた」からではない。「めざしを食べる経営者」だと思われることの政治的効果を熟知していたからである。
「政治とカネ」問題についても同様である。
政治過程には使途を公にすることのできない桁外れの金が流れている。
そのことを否定しても仕方がない。
政治家にとっての問題は、それをもっぱら「あるところからないところに回し、私的蓄財には振り向けていない」というふうに思われるかどうかである。
それ「だけ」である。
繰り返し言うが、問題は「国民の士気」なのである。
小沢一郎を支持するいまの「気分」は小泉純一郎以来の「先富論」、すなわちもっともアクティヴなセクターに資源を集中して、それが経済活動を牽引して国全体を豊かにするという図式への倦厭感を基盤にしている。
田中派政治は本態的にはノンアクティヴな層に資源を分配し、全体の「底上げ」をはかる「弱者目線」の政治であり、こちらの方がいまの社会状況からすると国民の大半からは微妙に好ましく感じられる。
日本の政治過程はこの30年ほどは、福田派政治と田中派政治のあいだを揺れ動いてきた。
今の政局はその何楽章目かの変奏である。
小沢一郎は二枚カードを持っている。
ひとつは地方と弱者への優先的な資源分配を実現するかもしれないという田中派政治への期待。
ひとつは対米強硬姿勢を実現するかもしれないという田中角栄の日中共同声明以来の外交的期待。
菅直人にはこれに拮抗するだけの強力なカードがない。
結果がわかるまであと一週間である。


2010-09-05

団体行動のすすめ

「多田塾甲南合気会上半期結婚披露宴3次会」というものが開催される。
春先から7月にかけて高取くん金子さん、くうさん、ヤベッチと3組の結婚式が続いたので、個別的に祝賀会をやっていると幹事が疲れちゃうということで、「まとめてやる」という手荒な英断を私が下したのである。
その後、去年の夏の亀ちゃんの祝賀会も会ではやってなかったよね・・・ということを思い出して、現在妊娠6ヶ月の亀ちゃんご夫妻(いまは小林さん)も加えてまとめて4組の合同祝賀会というものを開催したのである。
集まった同門の諸君、その数60
仕切りはいつものように、谷口さん、谷尾さん、清恵さんの「事務方の大人の人たち」。あと東沢くんとおいちゃんがお手伝いをしてくれました。
会場は国分さんのご紹介(シャンペンの差し入れも~)。
みなさん、どうもありがとう。
こういう団体行動をてきぱきとこなす、というのは実はたいへん武道的なことなのである。
本日は祝辞に代えて、「武道的団体行動」について一席述べさせていただくことにする。
先日の演武会をご覧になった方は気づかれたであろうが、初心者と上級者の違いは、「ポジショニング」にまず表れる。
演武をする畳のどの位置に座るかは畳の広さと演武者の数から、自動的に決まる。
しかし、初心者はどこに行けばいいのかわからず、なんとなく前の人についてゆくので、しばしば「だま」になってしまう。
演武が終わったあとも、どこに戻ればいいのかがわからず、最初と違う位置に座ってしまう人がいる(これは上級者にも散見されるが)。
これは「スキャン」ができていない、ということを意味している。
「スキャン」というのはつねづね申し上げているように、「自分を含む風景を上空から俯瞰する想像的視座」に立つ能力である。
ボールゲームの場合であれば、どこにスペースがあるのか、どこにディフェンスの穴があるのか、どこに味方のサポートがあるのかを上空から俯瞰して、逡巡せずにその最適動線を走るためには「スキャンする力」が不可欠であることは誰にもわかる。
これは戦場における用兵の機微にそのまま通じている。
植民地に展開する軍隊の指揮官を育成するために、英国のパブリックスクールではサッカー、ラグビー、クリケット、ボートといった「共身体形成」スポーツの履修が必修化されていた事情については平尾剛さんとの共著『合気道とラグビーを貫くもの』(朝日新聞出版)に詳しく述べたので、ここでは繰り返さない。
さて、問題は「スキャンする力」はどうやれば涵養されるかである。
これについても何度も書いた。
「スキャンする力」は「ミラーニューロンの活性化」と相関する。
他人が何か動作をしているときに、私たちの脳内でも、その動作をするときに必要なニューロンが発火している。
ただし動作としては出力しない。脳内で「シミュレーション」だけが行われる。
シミュレーションした動作を「出力」回路に繋げると、見たのと同じ動作が再現される。
だから、人間がボートを漕ぐのを見せると、猿でもボートを漕ぐことができる。
これを「連想行」ということもあるし、「心の稽古」ということもある。
武道的にはたいへん重要な稽古法である。
「見取り稽古」というのは、すぐれた術者の動きをただ見ているだけの稽古のことであるが、これはなまじばたばた走り回って大汗かいて稽古するよりもはるかに術技の上達に資する。
怪我をすると稽古を休んでしまう者がいるが、本当は怪我をしているときに黙って稽古を見ているというのはきわめて効果的な稽古なのである。
とにかく、そうやって他人の動きを熟視して、脳内でシミュレーションをしていると、何が起きるかというと、「他人の身体に仮想的に入り込んでしまう」ということが起きる。
なにしろ自分の脳内では、他人の動作がニューロンレベルでは再現されているので、「まるで自分自身が動いているみたい」に感じられるのは原理的には当たり前のことなのである。
ラカンのいう「鏡像段階」というのは、鏡に映った自分の像を「遠くにあるもの」だと思っている赤ちゃんが、その動きを脳内でトレースしているうちに、鏡像を「まるで自分自身が動いているみたい」だと感じ、ついには「あそこに見える『あれ』が私だ」と思うに至るという「倒錯」のことである。
つまり、自我というのは、ミラーニューロンの効果なのである。
「自分」とか「他人」とかいう概念が生まれるのはその後の話である。
武道的身体運用というのは、この鏡像段階の赤ちゃんの柔軟性をそのまま維持し続けることである。
すぐれた武道家は何を見ても、「あ、これは私だ」と思い込める。
他人の身体を見ると、たちまちそれが自分の身体と同期して動いているものだと「感じ」ることができる。
だから、自由自在にそれを動かすことができる。
それが活殺自在、万有共生ということのおそらくは技術的な意味である。
この「自我の拡大」「他者の取り込み」が短時間に高い効率で行われると、何が起きるか。
植芝盛平先生は道場でよくその場にいる全員を「金縛り」にされたという逸話があるが、これは「身体が動かない」という身体感覚を大先生が大出力で発信するので、門人たちはそれに同期してしまったと解釈できる。
あるいは「合気道は先の先」であるという言い方も大先生はされたが、それは「刀を振り下ろすと、相手がそこに首を差し出す」ような共感度の高い身体運用のことだと説明された。だから、「先の先」の武道を攻撃的に使えば、それは「虐殺」にしかならない。
「結界内」にいるすべての人間に自分の体感を送信できるということは、逆から言うと、すべての人間たちの体感を受信できるということでもある。
私には見えないが、彼らには見えるものが見え、私には聞こえないが、彼らには聞こえるものが聞こえ、私は触れていないが、彼らが触れているものが感じられる。
そうなるとどういうことが起きるか。
個人の五感では感知できるはずのない大量の感覚情報が入力してくると、脳はそれを「説明する」ために、あるイリュージョンを作り出す。
それが「私はここにいるのではなく、上空からすべてを俯瞰しているのだ」という「幽体離脱」幻想である。
脳がそのような幻想を要請するのである。
そういう幻想を持たないと、他人の体感が流れ込んでくるという事態をうまく説明できないからである。
「ミラーニューロンが活性化すると、幽体離脱幻想が起きる」という薬学の実験結果を武道的に言い換えると、それは「他人の身体運用に同期する訓練をしていると、スキャンする力が高まる」ということになる。
ここまで書けば私の言わんとするところはおわかりいただけるであろう。
合気道の稽古を重ねて「体感の同期」能力が高まると、必ず私たちは「自分を含んだ風景を上空から見下ろすような感覚」をもつようになる。
すると、自分はどこにいるのか、どこに向かっているのか、どこにいるべきなのか、どこに向かうべきなのかがはっきりと「わかる」ようになる。
「全員で大きな円を描く」ということを稽古の前後に何度か行うが、あのときに自分の立ち位置がわからずうろうろしているのは、こう言っては失礼だが稽古が足りない方である。
同じように、昨日のようなパーティでも、よく稽古を積んでいる人は、入室した瞬間に自分が座るべきポジションがわかり、稽古の足りないひとは、立ったままおろおろしている。
だから私は団体行動が好きなのである。
合宿がよい稽古になるのは、単に稽古時間が長いということではなく、起居をともにしているうちに体感の同期が高まって、自分の位置についての情報入力が増え、「いるべき場所、なすべきこと」がはっきり感知されるようになるからである。
三軸修正法の池上六朗先生があるセミナーで若い治療者に施術したあとに、「どう、感じ変わったでしょう?」と訊ねたことがあった。
その治療者は首をかしげて、「さあ・・・わかりません」と答えた。
池上先生は破顔一笑して、「そういうときに『変わりました』と言えないのは、自分の立場がわかってないからだよ」と言われた。
三軸修正法は「体感の同期」を軸に体系化されている。その意味ではすぐれて武道的な治療法である。
だから、自分の痛みや凝りに「居着き」、施術者の体感への同期を拒否するような患者は、かならず「その場にふさわしくないこと」を言うようになる。
ましてや治療者たらんとするものが「いるべき場所、なすべきこと」が感知できないようでは困る、池上先生はそうおっしゃりたかったのだと思う。
というわけで、私は「社員旅行」的なものが大好きなのである(多田先生もお好きである。もちろん池上先生もお好きである)。
来年の2月ごろに「停年退職記念・内田ゼミ卒業生全員集合バリ島ツァー」というものを挙行する予定である。
学部のゼミも大学院のゼミも、一度「ゼミに草鞋を脱いだ」人は誰でも参加できる。
総勢50人くらいでバリ島に行って、プールサイドと海岸でごろごろして、「椰子の木陰でピニャコラーダ」するのである。
これは武道の稽古として行っているのである、と私が強弁してもみなは信じないであろうが、ほんとなんだってば。