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2010-08-31

縮み行く世界

スーさんのツイッターにサンケイのネットニュースのことが書いてあった。
そういえば、その件についての電話取材を受けた。
別にコメントすることはなく、言うべきことはブログに書いた通りなので、ネット上に発表したことを引用されるのはご自由に、とお答えしたら、こんな記事になっていた。

仏文学者の内田樹さん「スト」宣言に賛否 売れっ子新刊ラッシュに待った
「日本辺境論」などのベストセラーで知られる仏文学者で神戸女学院大教授の内田樹(たつる)さんが、ブログ上で一部の自著の刊行にストップをかけることを宣言し、波紋が広がっている。旬の書き手に群がり、出版点数を増やす「バブル」を生み出しては、すぐにはじける。出版界のそんな悪弊を批判する行動だが、書き手たちの賛否は割れている。(海老沢類)
 発端は大手書店の店長が書いた8月12日付のブログだ。「伝える力」が100万部を突破したジャーナリスト、池上彰さんらの「バブル」に触れ、人気の著者に依頼が殺到する結果、質の落ちた本が出回って著者も疲弊していくとして、その悪循環を批判した。
 十数点の出版企画を抱える売れっ子の内田さんはすぐに反応した。13日付のブログに「大量の企画が同時進行しているのは、編集者たちの『泣き落し』と『コネ圧力』に屈したためである。(略)『バブルのバルブ』を止めることができるのは、書き手だけ」などと記し、4冊分の校正刷りの確認を塩漬けすると宣言。14日付で「日程がタイトであれば、書きもののクオリティはあらわに下がる」と理由を説明した。
 一方、店長に「バブル」と指摘された脳科学者の茂木健一郎さんは自身のブログで変わらず執筆を続ける姿勢を強調。経済評論家の勝間和代さんもブログで「当事者がコントロールできるものではない」と、内田さんとは対照的な考えを示すなど、反響が広がっている。
 騒動の背景には、不況下で加速する新刊ラッシュがある。書籍と雑誌の販売金額は昨年、21年ぶりに2兆円を割り込み、返品率は4割を超えた。売り上げの減少を補うため、出版社は自転車操業的に点数を増やしており、昨年の新刊は過去最多の7万8555点。頭数をそろえるため、引き出しが豊富で部数が見込めるビッグネームに頼る傾向に拍車がかかる。
 「途中で企画がストップすれば、収益見込みの修正が必要」(出版関係者)だけに、各社の編集者はほかの書き手に賛同の動きが広がるのを警戒する。ただ、内田さんを支持する専門家は少なくない。
 早稲田大大学院の永江朗教授(出版文化論)は「安価で手軽な編集ができる新書ブームがあった10年ほど前を境に、メガヒットした書き手に安易に依頼する傾向が加速した。対談や講演のテープを起こしただけの安直な作りの本が増えれば、読者離れを早め、出版文化の先細りを招くだけ。業界は今回の問題提起を真摯(しんし)に受け止めるべきだ」と警鐘を鳴らしている。(引用ここまで)

繰り返し書いているように、私は一般論を語っているのではなくて、「私自身について言えば」という限定の中で申し上げた話である。
「こんなペースで本を出すのは厭だ」ということを言っているだけである。
書くことが苦役だから、それを軽減してくれと言っているのではない。
御存じのように、私は書くことが大好きである。
江さんからは「センセみたいなのを『書きスケ』いうんですわ」とよく言われる。
書くのが大好きなのである。
常人の域を超えて好きなのである。
大好きだから、「やめろ」と言われても書く。
おまえのものなんか誰も読まないと言われてもじゃんじゃん書く。
でも、「やれ」と命令されると急に書きたくなくなる。
そういうもんでしょ。
どんなに好きなことでも、人に強制されたり、急かされてまでやりたくはない。
というより、好きなことだからこそ、人に急かされては、したくない。
だから、「急かすの止めてね」と編集者のみなさまにお願いしているのである。
書く仕事を私にも楽しませて頂きたい。
楽しませてくださるなら、そのお礼にできる限りのことは致します、と。
ごくまっとうなお願いだと思うのだが、どうであろう。

昨日の高橋源一郎さん、渋谷陽一さんとの鼎談の最後の方のテーマは「シュリンクしてゆく社会で、市民はどんなふうにすれば尊厳を持って、かつ愉快に生きてゆくことができるか」ということであった。
経済成長が止まったらもうおしまいだとか、人口がこれ以上減ったらもうおしまいだとか、国際社会でこれ以上侮られたらもうおしまいだ、とか「もうおしまいだ」的なワーディングで危機を論じる人がいる。
たいへんに多い。
私はこういう語り口は危険だと思う。
というのは、そういうふうな言葉遣いで一度危機論を語ってしまった人は、警鐘を乱打したにもかかわらず事態が危機的になったときに「ほら、言ったことじゃない」と言う権利を確保してしまうからである。
日本社会は不調になることによって、それを正しく予見した自分の知性の好調であることが証明される。
そういう条件だと、危機論者は「もうおしまい」状態の到来を髪振り乱して押しとどめようとする仕事にはそれほど熱心にはなってくれない。
そういう仕事は危機の到来を看過し黙許し、危機論者の必死の訴えに耳を貸さなかった諸君が後悔の涙にくれながらやればよいのだ。
そういうふうに考えてしまう。
これは属人的な資質の問題ではなく、「危機論を語る」ということのコロラリーなのである。
「俺の言うことをきかないと、危機になるぞ」という語り口で危機論を語ったのだが、誰も耳を傾けてくれなかったという苦い経験を持つ人は、いざ危機が到来したときに、つい「ほら、だから言ったじゃないか」と(口に出さなくても)思ってしまう。
それどころか、危機の到来をはやめるような要因があれば、ついそれに「加担」してしまうことさえある。
そういうことは無意識的に行われる。本人も自分が「危機の到来を加速するようなふるまい」をしていることには全然気づいていない。
でも、危機論者にとって危機の到来は個人的には「喜ばしいこと」なのである(なにしろ彼らの未来予測の正しかったことが事実によって証明されるからである)。
そういうのはあまりよくない。
つねづね申し上げている通り、「ゴジラが来るぞ」と危機の切迫を訴え、備えの喫緊であることを論じたにもかかわらず「バカじゃないの」と嘲笑された科学者が、その予見の正しさを証明するためには、どうしたって実際にゴジラが来て都市を踏みにじる場面が必要なのである。
彼が無意識のうちに(夢の中で、とか)「ゴジラの到来」を願ってもそれを責める権利は誰にもない。
危機のときに、「だから、あのときああしていればよかったんだよ」というようなあとぢえを語るのは100%時間の無駄である。
もう転轍点は過ぎてしまったのである。
過去に戻ってやり直すことはできない。
与えられた状況でベストを尽くすしかない。
「経済成長が止まったらおしまいだ」と言っている人は経済成長が止まった時点で、自分はもう何の役にも立たない。何の政策も提言できない。何のビジョンも提示できないと宣言している
だって、「おしまい」というのは、政策提言もビジョンもプロジェクトもとにかく生産的なことは「なんにもできない」状況を指すからである。
そのときにまだ次々と効果的な「打つ手」が思いつくようであるなら、それは「おしまい」の定義に悖る。
実際には人口が減ろうと、経済成長が終わろうと、国際社会で侮りを受けようと、それでも私たちは生きていかなければならない。
生きてゆかなければならない以上、「それでも自尊感情を保ち、気分よく生きるためにはどうすればいいか」という問いに知的資源を投じるのは生産的なことだ。
高橋さんとそういう話をした。
軍事用語を使って言えば、これからの日本は「後退戦」を戦うことになる。
「百戦百勝以外はありえない」という『戦陣訓』のようなことを言う人間には後退戦は戦えない。
だって、その立場からすれば後退戦などというものは「ありえない事態」だからだ。
「ありえない事態」における適切なふるまいとは何かというような問いは、彼らには決して主題化しない。
けれども、私たちはいま、それを主題として考究すべき時点にまで立ち至っている。
無限に成長し続け、無限に人口が増え続け、無限に税収が増え続ける社会などというものは原理的に存在しない。
そのような存在しないものを基準にして「そうでなくなったらおしまいだ」というようなことを言って青ざめるのは愚かなことである。
繰り返し言うが、日本はこれから「縮んでゆく」。
その過程でさまざまなフリクションが生じるだろう。
それがもたらす損害を最小に抑制し、「縮むこと」がもたらすメリットを最大化する工夫を凝らすこと、それが私たちにとってもっとも緊急な公的課題ではないのか

私が「そんなにたくさん本を出さなくてもいいじゃないか」と言うのも、実は同じ文脈での話である。

2010-08-26

ドンガバチョ的

先日の毎日新聞の「余録」が日本の教育の失敗を海外の成功例と比較して難じていた。
例えばフィンランドはソ連崩壊の「余波で大不況に見舞われ国の歳出は大幅カット。そのなかで教育費だけ増やす大勝負に出た。それは大きな果実をもたらした。子どもたちの学力は急伸。国際比較ではいつも世界のトップだ。ノキアなど知識集約型の産業が発展し『森と湖の国』はハイテク国家に変容した。」
よく聴く話である。
もう一つの成功例はシンガポール。
「シンガポール政府のウェブサイトを見ると、英語、日本語、中国語、韓国語など7種の言語で、世界の若者に留学を呼びかけている。もしあなたが卒業後3年間シンガポールで働けば、学費の8割を無償供与しましょうと。世界の大学はいま、いかに海外の優秀な頭脳を獲得するかを競う。それが国の将来を左右するからだ。日本は大丈夫だろうか。英タイムズ紙系の『QS大学ランキング』10年版(アジア地域)を見ると、シンガポール国立大学が昨年の10位から3位に急上昇し、東京大学の5位(日本では首位)を追い越していた。」
私はこれを読んで、朝から気分がなんだか悪くなった。
大学教育の現場の人間として繰り返し言っていることだが、教育のアウトカムのうちもっとも重要な部分は数値的に表示できない。
「大学ランキング」は数値化できるものだけに基づいて大学を序列する。
博士号授与数とか獲得した特許数とか外部資金獲得額とか奨学金総額とか学会賞受賞数とか外国人留学生数とか学生一人当たりの校地面積とか図書冊数とかいうA4一枚に書ける程度の数値で大学は格付けされる。
私はそれが悪いと言っているわけではない。
ことの順逆を間違えて欲しくないと言っているのである。
格付けに利用される数値と、アカデミアのinnovativeness の関係は、「エレベータの階数表示」とエレベーターの空間的な位置の関係に類するものである。
エレベーターが空間的に高いポジションにいれば、階数表示も大きな数字を示す。
だから、「階数表示を大きくする」ことを目標に掲げるというのは、愚かなことである。
目標とすべきは「エレベーターの空間的なポジションを上げる」ことであり、階数表示ではない。
むかし『ひょっこりひょうたん島』で、悪人を乗せて降下するエレベーターを止めようとして、ドンガバチョがエレベーターの階数表示の「針」を止めるという大技を繰り出したことがあった。
「大学ランキング」を上げるために何かをするというのは、きわめてドンガバチョ的なふるまいである。
問題がエレベーターの空間的位置取りを上げることであるなら、方法は無数にあるからだ。
地下室に爆薬を仕込んで吹き飛ばすという手もあるし、巨人を呼んできて摘み上げてもらうという手もあるし、地軸を逆転させるという手もある。
そういうことである。
「イノベーティヴである」というのは、ある目的を遂行するためにどれだけ多くの、できるだけ想像を絶する手立てを思いつくかという能力のことである。
アカデミアはイノベーティヴであることによってのみ存在価値を持つ。
日本の大学が国際的なランキングで低下しているのは動かしがたい事実である。
けれども日本の大学の国際的な競争力を下げている大きな原因の一つは、「競争力が上がったことを数値的に表示しろ」ということしか言えない政治家と教育行政官とメディアの「ぜんぜんイノヴェーティヴでない発想」そのものなのである。
大学ランキングで自分のところより上位の大学があるから、その成功事例を「真似ろ」という発言をふつうは「模倣」という。
先行事例の模倣を通じてアカデミアが生成的な環境になるということは「ありえない」。
ノーベル賞をもらった理論の真似をした理論を発表すればノーベル賞がもらえると思っている人間がいたらそれが救いがたい愚者であるということは誰にでもわかる。
それがわかるなら、フィンランドやシンガポールの成功事例の「真似をしろ」ということしか教育改革についての提言が出来ないという骨がらみの「反創造性」が日本の大学の創造性を損なっているのかもしれないという可能性についても配慮できるのではないか。
フィンランドやシンガポールが成功したのは、成功事例を模倣したのではなく、「ほかのどこもやっていないこと」をやったからだという単純な理路が理解できないほどに日本人の知性が不調であるのだとしたら、この国の教育に未来はない。
全然、ない。