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2010-09-14

大学時報に書きました

「大学時報」という私大連が出している刊行物に次のような文を寄稿しました。活字版は先月出たので、もうネット上で公開しても大丈夫でしょう。
「いつもの話」ですので、その話はもういいよという人はスルーしちゃってください。
選ばれないリスクを負うこと‐神戸女学院大学の特殊性について
 三大都市圏以外にあり、学年定員800名以下の、女子大学という「三重苦」的な条件下にありながら、これまでのところ定員割れを経験していない大学ということで、本学の「成功」事例が「大学時報」に取り上げられることになった。たいへん光栄なことだとは思うけれど、本学の諸特徴には、歴史的に形成された条件が深く関与しており、GP的な事例として一般化することはむずかしいと思われる。あくまで例外的な一事例として諸賢の参考に供したい。
本学が最も心がけていることは、「アドミッションポリシーの明確化」である。アドミッションポリシーとは日本語で言えば「旗幟」ということである。「本学の教育理念・教育課程は独特のものであり、他とはずいぶん違い、決して十人のうち八人九人に選好されるようなものではない」ということをあらかじめ開示するということである。十人に一人あるいは二十人に一人でも、「この学校は私の気質に合っている」と思ってくれる学生にとことん気に入ってもらえること、それがアドミッションポリシーを明確化することの意味だと思う。
だから、本学では「よその大学では、こんなことをしているのに、本学はそれに追随しなくてよいのか」というタイプの議論が口にされることがきわめて少ない(まったくないわけではないが、説得力をもつことはきわめて少ない)。
よそはよそ、うちはうち、である。
そもそも本学は米国から来日した二人の女性宣教師によって135年前に建学された会衆派系のミッションスクールであり、開学はキリシタン禁令の高札がおろされた直後のことである。そのことが意味するのは、神戸女学院に対する「市場のニーズ」などというものは建学の時点では存在しなかったということである。
ニューイングランドから大陸を横断し、さらに太平洋を渡って、神戸まで来た二人の女性には、何よりもまず「教えたいこと」があった。やがて神戸の一握りの少女たちがその学舎の最初の生徒となるが、そこで彼女たちが学んだキリスト教学やヨーロッパの歴史や言語は、むろん明治期の社会が若い女性に求めていた「実用的教養」とはほとんど無縁のものであった。
「教えたいこと」があるという人がいて、それを「学びたい」という人がいれば、そこに学校教育が成立する。それがことの順序である。もちろん、こちらが「教えたい」と示すものについて、「そんなものは学びたくない」「もっと違うことを学びたい」という人もいる。いて当然である。けれども、まず「教えたいことがある人」からすべてが始まるという順序は変わらない。
経営に苦しむ大学を見ていると、「市場のニーズ」にどうやってキャッチアップしようかをあれこれ試行錯誤しているうちに、いったい自分たちが何を教えるために学校を建てたのか、その初発の理念を見失っているケースが多いように思われる。「向学心に富んだ若者をひろく迎え入れ、国家須要の人材を輩出する」というような抽象的なアドミッションポリシーを掲げる学校は、理想的には「十人のうち十人」に選好されることをめざしている。だが、それは無理な願いである。
たしかに、「教えたいこと」の輪郭がはっきりしていればいるほど、それを「学びたい」と思う人間の絶対数は減る。これは不可避である。本学のような「キリスト教精神に基づいて、リベラルアーツ教育を行う女子大学」は、宗教教育を望まない人々や、競争を勝ち抜いて成功することを願う人や、専門的な知識や技術をすみやかに身につけたい人からは(もちろん男子からも)選択されない。けれども、だからといって「学びたい」と思う人を増やすために限定条件を解除してゆけば、いずれその学校が何を「教えたい」のかがわからなくなる。どちらを取るか。「旗幟を鮮明にする」というのは「選ばれない」というリスクを引き受けることである。
だが、ここ十年の大学志願状況を見ていると「選ばれないこと」を恐れ、「市場のニーズ」へのすみやかなキャッチアップを急いだ大学ほど定員確保に苦しんでいるように見える。それは「石にかじりついても、これだけは教えたい」という建学者の素志が忘れられ、「市場は何を望んでいるのか、どんな『客層』をターゲットにすればいいのか、どんな教育サービスの費用対効果がよいのか」といったビジネスのワーディングで教育が語られ過ぎたことの帰結ではないかと私は思っている。
本学の特徴の第二点も、建学者の個性に発するものである。本学はアメリカの海外伝道組織アメリカンボードから派遣された会衆派教会の二人の伝道者によって建学された。「会衆派」はその名のとおり、リベラルな教会組織であり、強権的な指導者や、トップダウンでの意志決定を好まない。そのリベラルの伝統は135年経っても、変わることなく本学の学校文化の中に生き延びている。
本学の、教学にかかわる最高決定機関は全学教授会である。合否判定や単位認定や学籍のための議決機関として全学教員が毎月一堂に会して議するという大学は今となっては全国でも稀であろう。もちろん、90人の教員が集まって議論するのだから、合意形成のためには手間暇がかかる。会議に要する時間が長いことに不満を言う人ももちろんいる(私もしばしば不満を言う)。上意下達で命令してもらった方がよほど楽だと言う人もいる(私もときどきそう思う)。しかし、この愚直な教授会民主主義のために、本学ではいったん全学教授会で決定したことについて、「私はその決定に関与していない」と言う権利は教員には認められない。その決定は誰でもなく、われわれ自身が熟議の末に採択したものである。そうである以上、機関決定を実行し、成功させる義務はわれわれにある。また、原案についての「根回し」が済んで上程された議題についても、教授会でひとりの教員が立ち上がって熱弁をふるい、説得力のある反論を述べたせいで、原案が否決されることも珍しくない。それは教員個人に負託された権限が大きいということである。
私学の中には、理事会が人事や予算の配分について、教授会よりもつよい権限をもつところが少なくない。そういう大学ではたしかに合意形成のために無駄な手間暇をかけることなく、経営者の独断で、大胆な学部学科再編や、カリキュラム改革や「サプライズ人事」を断行することができる。一見すると、たいへん合理的・効率的なマネジメントのように見える。だが、トップダウンで決められた教員組織の改組や教育課程の改訂は、しばしば教員の自尊感情を損なうことがある。「教学について決定権を持たされない」という事実が教員の士気をどれほど傷つけるか、そのリスクに私学経営者は必ずしも自覚的ではない。もちろん、それでも教員たちは「給料分の仕事」は果たすだろう。だが、「給料分以上の仕事」をするモチベーションは損なわれる。しかし、大学での教育研究活動をドライブしているのは、実は教員たちによる「オーバーアチーブメント」なのである。給料の何倍分もの仕事を、誰にも命令されることなく、黙々と担っている教員たちによって、大学の知的アクティヴィティは担保されている。「オーバーアチーブ」を動機づけるのは、昇級や昇格ではなく、つよい使命感である。それは教員たちに教学についての決定権を委ね、その成否の責任を彼ら自身に求めるという教授会民主主義システムによってしか培われないだろうと私は思っている。
本学は合意形成・意志決定に至るまでに膨大な時間を要するこの教授会民主主義システムを採用している。「非効率的」という批判は甘んじて受けなければならないが、その代償として、大学のカリキュラムや教育プロジェクトについて、それが成案に至るプロセスを熟知し、その成否につよい責任を感じている教員層を形成することには成功した。これはトップダウンで意志決定を行う、「効率的」な私学経営者には望むことの困難な人的資源である。
これに類することは職員についても妥当する。本学の職員は、女性職員のほぼ全員が卒業生であり、男性職員も教会員の比率が高く、職員たちにとって学校は「職場」というに止まらず、彼ら自身がその「ミッション」に賛同して、自発的に参加した一種の運動体である。
卒業生である職員にとって、現役学生たちは何よりもまず「後輩」である。これまでもコンサルタントなどによる研修会で、繰り返し「CS」(消費者満足度)ということが言われたし、学生や保護者の中にはときに「『お客さま』に対して、もっと低姿勢の対応をしろ」というクレームを口にするものもいるが、本学職員は、学生を「お客さま」として遇し、サービスを提供する代価として授業料を取るというスキームになじめないでいる。私はそれでよいと思っている。校則を軽視したり、常識を欠く行動をした「後輩」を、「先輩」たちが教育指導する責任を感じるというのはごく自然なことであり、これをマーケットにおける売り手と買い手のモデルに置き換える必要を私は認めない。
もう一つの巨大な人的資源は同窓会である。3万人近い会員を擁する本学の同窓会は、母校に対してつよい関心とロイヤルティを保持し、多様な社会活動を通じて、神戸女学院の存在意義を学外に示している。
また同窓会は本態的に、大学のミッションが揺るがぬこと、教育課程が継続的であることをつよく願う傾向がある。学部学科が次々と改廃され、教育課程がめまぐるしく変わることは外部からは「競争的にアクティヴ」ととらえられるだろうが、卒業生からすれば、それは「あなたがたが受けた教育はもうout of date である」と宣言されているに等しい。卒業生は自分たちの受けた教育は時代を超えて価値を持つものだというメッセージが母校から発信され続けることを願っている。このステイクホルダーからの(無意識的な)リクエストは本学の教育課程の編成につよい影響を及ぼしている。
例えば、学部改組ブームのときに、多くの大学が「文学部」という看板を下ろして「国際」や「情報」や「人間」のつく学部名に改称したが、本学はこの「時代遅れ」の名称を保持した。その当否は措いて、学校教育は本質的に惰性的なものであり、教育政策の転換や市場の要請に応じて朝令暮改的に変化するべきではないという思想は本学の教育課程全体に伏流している。
以上、ランダムに列挙してきたけれど、私たちの大学が採用してきた基本的な方針は、どれも「万人向き」のものではない。というか、少数の例外的な大学にしか適用できないものだと思う。どのようなシステムにも「いいところ」と「悪いところ」がある。私たちは自分たちの大学のシステムの「悪いところ」をよく承知している。それは、ひとことで言えば、ミッションスクールであるがゆえに、志願者が限定されるということであり、教育政策の転換や、「市場のニーズ」の変化にも即応できない点である。しかし、これまでのところは、スクール・ミッションを明らかにしていることで、「こういう大学で学びたい」という明確な志向をもった志願者を一定数確保することには成功している。また、個々の教職員にフリーハンドを認める会衆派的体質ゆえに、個人の発意に基づく多様な教育プログラムが起案され、実施され、それが制度全体の「惰性の強さ・変化の遅さ」のもたらす否定的影響をカバーしていることもたしかである。
このような本学の校風が維持され、またその「旗幟」が周知されている限り、当面は経営的破綻について懸念する必要はないように思う。危機がありうるとすれば、それは他学の「成功事例」を追随して、志願者確保のために「旗幟」をあえて不鮮明にするとき、伝統的な大学民主主義を棄てて上意下達の指揮系統を採用するときだろう。

2010-09-13

成功について

イギリスにいる研究者から「成功について」というテーマで質疑応答のやりとりをした。
なんと、各界の「成功者」たちにインタビューするという研究だったのである。私は「成功者」にカテゴライズされているらしい(知らなかった)。
奇妙な気分がしたけれど、そういう幻想的な評価はどのようにして定着するのかという消息には興味があったので、ご協力したのである。そのやりとりが日本語でネット上でも公開されることになった。
前に一部をブログで公開したけれど、今回は全文を転載。
長いですので、お時間のあるかただけどうぞ。

問い1)何故、そしてどのように現在の教授職にたどり着いたのか

いくつかの職業選択の分岐点で、そのつどの気分で道を選んでいるうちに、20代の終わりに研究者・教育者への道を選択することになりました。やってみたら、けっこう、性に合っていたので、気が付いたら30年以上もこの仕事をしていました。その教授職も今年限りで、来年からは別の仕事をします。

問い2)「成功」の定義の仕方とは。

「成功する」ということを自分自身の生きる上での目的に掲げたことがなく、また人を評価する場合も、「成功したかどうか」という基準で見ることがない、個人的な定義はありません。

でも、一般に用いられている「成功」という語には共通のコノテーションがあるとは思います。
強いて定義すれば、「成功」の定義とは、本人の自己評価とはかかわりなく、周囲の人間の多くから「この人は成功者だ」と思われる人間の諸属性、ということになります。ほとんど同語反復ですけれど。

問い3)幸せイコール成功の方程式は成り立つのか。成功に対する物差しはつまるところ個人へ行き着くのか。

「幸福」と「成功」は一致しないと思います。
「成功したが、幸福ではない」という文も「成功していないが、幸福である」という文も、どちらもふつうのリテラシーを備えた読者は「無矛盾的」な文として読むことができます。
「幸福」についての物差しはあくまで個人の主観的印象です。
ですから、「私は幸福である」という言明は他人が否定しても、私が宣言すれば成立します。
この言明を否定する権利は他者にはありません。「あなたが幸福であるはずがない」という反論はほとんど無意味です。
しかし、「私は成功者である」という言明は個人的なものではあり得ません。
ここには「私は世間から成功者とみなされているはずである」という、「他人の判断についての評価」が含まれているからです。
ですから、それについては、「あなたの『他人の判断についての評価』は適切ではない」という反論が可能です。
「あなたは成功者ではない。現に、私はあなたを成功者だと思っていない」という言明は十分に破壊的です。

問い4)僕らの社会で全人類が成功するというアーギュメントに(少なくとも精神的に)抵抗があるのはなぜか。それを克服するソリューションは何か。

「成功」というのは、上で述べたように「他人の判断」ですので、他者に依存しています。
極端な例を挙げれば、人類が死滅して、世界最後のひとりになった人間が「私は幸福だ」という自己評価を下すことは(蓋然性は低いですが)不可能ではありません。
けれども、その人が「私は成功者である」と自己評価することはありえません。
というのは、ここには「あなたは成功者である」と評価する他者が存在しないからです。
成功というのは、「できることなら、あなたと立場を代わりたい」という、「成功していない人間」の欠落感や、羨望を(仮説的にではあれ)勘定に入れない限り成立しない、ということです。
「成功者クラブ」があって、そこでは全員がおたがいを「成功者」として認めあっている場合でも、「クラブ」のそとに「われわれを羨んでいる人々がいる」ということをメンバーたちが前提していなければ、それは「成功者クラブ」とは呼ばれません。
すから「全人類が幸福になる」ということはありえますが、「全人類が成功する」ということは成り立たないと思います。

問い5)21世紀において「ベスト」な国際政治体系とは何か。

上の定義からすれば、「成功した政治体系」とは、自分は「成功していない政治体系」のせいで不当な苦しみをこうむっていると考える人々が「できることなら代わりたい」とカムアウトすることによってのみ成立するものです。
ですから、私が「失敗した統治システム」と評価するものを、「すばらしく成功している」と評価する人々がいても、まったく不自然ではありません。
政治体系に「ベスト」は存在しません。ひとりひとりについて、「これよりはましと思えるシステム」があるだけです。
とりあえず私たちが歴史的経験から学んだのは、「ベストの政治体系」があると信じ、それを一気につくりだそうとした政治権力は、例外なく、反対者の粛清か強制収容か、その両方を採用したということです。
「ベストの政治体制」があたかも存在しうるかのように語る人間にはできるだけ近づかない方がいい、というのは私がまずしい政治的経験からひきだし得た数少ない教訓のひとつです。

問い 6)一人の教育者として、これから国際社会で求められている能力をどう捉えているか。日本の成功した教育モデルと世界のモデルは同一であるべきか。そして何が違うのか。

国際社会で求められている能力は、「国際共通性をもたないアイディア(ローカルな、あるいはパーソナルな)を、国際共通性のある言語とロジックに載せて展開する能力」だと思います。
現代人に限らず、人類がジャングルから出て共同生活を始めてから、求められる能力はつねに同じです。

問い 7)個人単位での成功において最も大切なものは何なのか。

上に書いたように、成功についても、成功者についても、あまりまじめに考えたことがないので、この質問には答えられません。
以上です。
どうもお役に立てないようで、すみません。


そのあと追加の質問がありました。

追加問い1) ご返事どうもありがとうございました。大変勉強になります。
本当に図々しいんですがあと二つだけ質問してもよろしいでしょうか。
成功が他者によって成り立つという過程が成立するのであれば「部分的な成功を全人類的にシェアする」ことは可能か。例えばAさんの教授としてのキャリアは多くの人に成功者と言われるだろうが、彼はBさんの天才的な料理のスキルをリスペクトすのでBさんも成功と言えて、、、というかたちで成功の絶対量(リスペクトの数)(あるとすれば)は違えど、人間が成功できると僕は思ったんですが内田先生のご意見を聞かせてください。すごい単純に言うと人は全員良いとこがあってそれを認め合う事は可能か、という性善説なんですが。そのリスペクトの数も相対的に考えるとまたこれも「少し成功してる人」と「たくさん成功してる人」が生まれますが、ぼくは少なくとも現在の社会で成功者という判断を一切されてない、それこそ親からも友人からも職場の仲間からも、人はごまんといると思います。そしてそれが、強引ですが、社会的な問題をおこしてる一つの引き金だとも思うのです。

問い2)ベストのソリューションがないときにはベターを、というご意見についての質問ですが、「これはあれよりまし」と判断するのは誰ですか(もしくは誰であるべきか)。政治家なのか、知識人なのか、小市民なのか。ぼくはその答えが出せなかったので現在集合的なインタビューで答えを見つけようとしています。それが民主主義社会において誰もが「反対する事が出来ない」唯一の方法だと思うからです。

質問のつづきにお答えします。
問い1について、「成功」というアイディアが、社会的弱者のうち、自分を「非成功者」とみなしている層につよいフラストレーションを与えているというのは事実だと思います。
けれども、社会的弱者でも自尊感情を維持しているひとたちはたくさんいます
自尊感情と成功は必ずしも同期しないとぼくは思います。
逆に言えば、社会的「成功」者とみなされながら、自尊感情が低い人もたくさんいます。彼らは「成功が足りない」と思っているので、他人に対して、不要に屈辱感を与えようとしたり、過剰な奉仕を求めたりして、「自尊感情の不足分」を補おうとします。
このような人間を作り出すことには社会的に何の意味もないと僕は思います。
それよりは、自尊感情というのはどのように構造化されているのか、どうすれば、「十分な自尊感情をもっている」人たちをつくりだすか、という問いに知的資源を割く方が合理的ではないでしょうか。
最終的に自尊感情を形成するのは「私にはあなたが必要だ」という他者からの懇請の言葉に尽くされると思います。
「自尊感情」というのは「オレはえらい」という自己認識のことではなく、「私は生きなければならない。私にはやらなければならない仕事があり、それは私以外の人間によっては代替できぬからである」という他者とのかかわりからもたらされるものだからです。
I cannot live without you
というメッセージほど人間の「生きなければならない」という気持ちをかきたてるものはありません。

問い2について、
「ベターなソリューション」というのは、解そのもののことではありません。「ベストなソリューションは存在せず、ベターなソリューションしか存在しない。どれをベターとするかについての汎通的な基準はない(あれば当然その基準にもとづいて「ベストなソリューション」が導出できるはずだからです)」ということについての集団的合意、という事態そのものを言います。
それは「言論の自由」と同じ成り立ちをしています。言論の自由というのは「何を言っても構わない」という意味ではなく、「さまざまな言論のうち、どれがベターであるかについて検証する場が存在する」という「場への信認」のことです。
そのような「適否の判断をする場」めざして人々は発言する。人々を説得して、合意形成をめざす。
そのために情理を尽くして説く。
そのようなルールがとりあえず承認されている事態そのものを「ベターなソリューション」と申し上げたのです。
合意形成めざして発言するひとがなにものであるかということは問題にはなりません。
判断を下すのは個人ではなく、「適切な判断を下す場への信認」です。位相が違うのですが、その違いがおわかりになるでしょうか。
(やりとりはここまで)

なんか、ちょっと不親切な終わり方をしているけれど、それは若い知識人たちが「正解」と正解を導く汎通的解法を求めるのにいささか急であることに困惑して、そうなってしまっているのである(ごめんね)。
若い人にはぜひこの一言を玩味していただきたい。
「急いちゃいかん」(@by 佐分利信 in 「秋日和」)