というわけですので、ちょっと気合いを入れて、ノートなんか作ってみました。
とりあえずはシラバス的なのを。
教育目的
今年度の「クリエイティヴ・ライティング」は「言葉を使う」という営みそのものを根底的に問い直すことから始めたいと思います。
私たちはごく自然に自分は言葉を使って「言いたいことを表現する」という言い方をします。でも、ほんとうにそうなのでしょうか。現に、言いたいことはなかなかうまく言えません。たいていの場合、私たちはつい出来合いの言葉を使って近似的な表現に甘んじたり、言いたいことに言葉が届かなかったりします。つまり、私たちの言語運用はつねに「言い過ぎる」か「言い足りない」かどちらかなのです。
「言い過ぎた」と「言い足りなかった」というふうに「過不足」を語れるということは、「言葉と思いがぴたりと合った理想的な状態」を私たちがどこかで想定しているからです。でも、そのような状態を私たちはたぶん生まれてから一度も経験したことがないし、これからもたぶん経験することがないでしょう
「お腹が空いたね」というような、これ以上はないほどシンプルな表現でさえ、そう告げた相手が例えば「え?もう腹減ったのかよ?だからデブになるんだよ」というふうに応じた場合には、こちらの空腹感はたぶん一瞬のうちに消え失せてしまっているでしょう。口にした一秒後に「思い」と一致しなくなる言葉はたぶん「ほんとうに言いたいこと」ではありません。
言葉と思いが一致した理想的な状態なんて私たちは誰も経験したことがありません。でも、それを求めて止みません。それは「思いと言葉が一致したので、すごく気分がよかった」ということが原体験にあるからではなくて、「思いと言葉があとちょっとで一致しそうなところまで行ったのだけれど、あとちょっとでずれた」という「あとちょっと経験」(ラカンの用語を使っていえば、「原初的不調和」)が原体験にあるからではないでしょうか。私はそんなふうに思います。
そこで私の仮説です。
びっくりされるかも知れませんが、「あとちょっとで言葉が届きそうになった『私がほんとうに言いたいこと』」というのはほんとうは存在しないんじゃないでしょうか。
つまり、「的をそらした」という感覚だけが存在して、「的」なんかほんとうはない、と。そしてクリエイティヴな、あるいはイノヴェーティヴな言語というものは、極論するとこの「的をそらした」という感覚にどこまで執拗にこだわり続けることができるか、その持久力によってもたらされるのではないでしょうか。
わかりにくいですね。すみません。
でも、これは長い話だからしかたないです。というわけで、今回のクリエイティヴ・ライティングでは、ひさしぶりに「言語論」の序論を(少しだけ)教壇で講じてみようかと思います。ソシュールの一般言語学、ロラン・バルトのエクリチュール理論、精神分析と言語、物語の形態学、アナグラム・・・といった問題群についての基本的な理解があるだけで、みなさんの言葉についての理解はずいぶん深くなるはずです。
もちろん、クリエイティヴ・ライティングですから、授業の中心はあくまで「書くこと」です。学生諸君にはいろいろな主題で、いろいろな手法で、実際にものを書いてもらいます。私たちが言語をどんなふうに使っているのか、それについて「なんだかよくわからなくなった」というようなことがあれば、それだけで当面の教育目的としては十分かなと思います。
評価
平常点と随時課する「書き物」から評価します。それなりの知的集中力が必要ですので、そのつもりで履修してくださいね。
(1) ソシュールの一般言語学講義:記号について
(2) ロラン・バルトとエクリチュール論
(3) エクリチュールあるいは「ヴォイス」
(4) 声を聴くのは誰か?
(5) 倍音としてのエクリチュール 「聴きたい音」が聞こえるという経験について
(6) 非整数次倍音を語るために:「他者が語る言葉」をどのようにして自らの言語のうちに取り戻すか?
(8) ソシュールとアナグラム
(9) 時間的差異(聞こえない音を聴く=倍音経験)と空間的なずれ(見えないものを見る=アナグラム経験):differance と書くこと。
すごいですね。ソシュールにバルトにラカンにデリダにブランショですよ。
最後の授業だからね、たまには仏文学者っぽいこともやらないとね。
でも、学生さんたち寝ちゃうかも・・・
寝るよね。絶対。