FM東京からの電話取材で「マルクスブーム」についてお話する。
「今どうしてマルクスなのか?」
ってさ、この定型的なタイトルなんとかなりませんか・・・
まあ、よろしい。
どうして、私たちは今ごろ「マルクス本」を書いたのか。
それについては『若マル』の中に縷々書いたので繰り返すの面倒だが、やはり最大の理由は「グランド・セオリーの復権」という思想史的な軌道修正である。
「グランド・セオリーの終焉」というのは、ご存じポスト・モダニズムの惹句である。
世界を概観し、歴史の流れを比較的単純なストーリーパターンでおおづかみに説明するような「大きな物語」を退けたポストモダニストたちは、きわめて複雑な知的ハイテクノロジーを駆使して、何を書いているのかぜんぜんわからない大量のテクストを書きまくった。
「何を書いているのかぜんぜんわからないテクスト」を書く人間はもちろん「わざと」そうしているのである。
それは読者に「この人は、どうしてこんなにむずかしく書くのだろうか?」という問いを発させるという遂行的な目的があるからである。
このような問いを立てた読者は高い確率で「この著者は私に理解できないことをさらさらと書けるほどに知的に卓越しているのだ」という判断を下すことになる。
この反応は人類学的には実はたいへんに正しいのである。
「なんだかわけのわからないもの」に触れたとき、「これは理解するに値しないほど無価値なものだ」とただちに断定するタイプの人間と、「これには私の理解を超える価値があるのではないか」と推量するタイプの人間ではどちらが心身のパフォーマンスを向上させる可能性が高いか、考えればわかる。
「わけのわからないもの」に遭遇したとき、「ふん」と鼻を鳴らして一瞥もくれずに立ち去るものと、これはいったい何であろうかと立ち止まってあれこれ思量するものでは、世界に対する「踏み込み」の深さが違う。
「疎遠な世界を親しみ深いものに変換する」ことにつよい意欲をもつ人間は「既知のもの以外には何の関心も示さない」人間よりも当然ながら環境とのかかわりが深くなる。
それは長期的には、その個体の「生き延びる確率」に有意な影響をもたらすことになる。
だから、私たちの深層には「なんだかわけのわからないもの」に遭遇したら、とりあえず満腔の関心と敬意を以て接すべしという類的な命令がインプリントされているのである。
それは生存戦略として正しいのである。
そして、ポストモダニストたちは私たちに深々と刻印されたこの類的反応を巧みに利用した。
ラカンやフーコーやデリダのような先駆者たちは自覚的に「わけのわからない」文体を選択したのだが、それに後続するエピゴーネンたちは必ずしもそうではなかった。
彼らの書きものがどんどんわかりにくくなったのは、あらゆる既存の「物語」を棄て、いかなる定型にも回収されずに高速で疾走し続けるノマド的な運動態こそが「知のあらまほしき様態」としてリコメンドされたからである。
ポストモダン知識人たちは、読んで「わかる」というのは、既知に同定され、定型に回収されることであるから、読んでも「わからない」方が書きものとしては良質なのだと考えた。
推論としては合理的である。
そして、ついに書いている本人さえ自分の書いたものを読んでも意味がわからないという地点にまで至って、唐突にポストモダンの時代は終わった。
もし、いまマルクスが再び読まれ始めているというのがほんとうだとしたら、それは「『大きな物語の終焉』という物語」が終焉したということではないかと私は思う。